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壊れた母娘関係を正視し、家族の傷を癒すドキュメンタリー
『我和我的T媽媽(同性愛母と私の記録・仮)』を翻訳出版したい!

残り3日間!一部先読み原稿公開!(第二弾)

こんにちは。発起人の小島あつ子です。
クラウドファンディングもいよいよ大詰めとなり、ここにきて急激にご支援が加速してきました。これまでに作品に興味をもってプロジェクトの趣旨にご賛同くださり、ご参加・追加・アップグレードくださった皆さまには、言葉にならないくらい感謝しております。ここまで支えて下さいまして、本当にありがとうございました。

そして、この作品を読みたい/見たい!と心待ちにしてくださっている皆さまに最後のお願いです。いま一度、周りの方にお声がけいただけないでしょうか。「この本をどうしても読みたい!」という皆さまの熱意が、最後の一押しとなります。この週末が最後の勝負です。

どうしても、どうしても、『同性愛母と私の記録・仮(我和我的T媽媽)』を日本語で出版したくて、先走って翻訳してしまいました。その中から、クラウドファンディングサイトの冒頭でご紹介した文章を含む「第6章 私:阿偵」の一部分を先読み第二弾として公開します。

皆様に感謝の気持ちを込めて。ぜひお読みください!
 


私の家族を映画に撮る

自分の家族を映画に撮ることを思いついたのは、1998年のことだった。その頃の私と妹は、自宅から1キロほど離れた陣頭から仕事を斡旋してもらっていた。私たちの仕事は牽亡歌陣の前場舞踊者だった。

牽亡歌陣は、死者の魂を召喚し、苦しみから解放して極楽浄土に導く儀式を行う、台湾土着の葬式陣頭だ。儀式のほか、残された者たちを慰め、教えを説く内容のパフォーマンスも行う。牽亡歌陣は1980年代に隆盛を極め、当時は田舎でも都市でも、告別式用の仮設テントが立っているところであれば、どこででも見られたものだった。

20歳にして、私はすでにベテランの牽亡歌陣パフォーマーだった。6歳から母と一緒に陣頭に出演して、生活費を稼いでいたからだ。その頃の私の生活は「自宅にいなければカフェに、カフェにいなければカフェに向かっている途中です」という有名なCMコピーの、「カフェ」を「牽亡歌陣」に変えれば説明に事足りるほど、ごく単調なものだった。

1998年のある夏の日のことだった。いつもと同じように、陣頭の老闆から仕事の依頼をもらった私と妹は、言われた時間に現場へ向かった。他の出演者たちと一緒に化粧道具を広げ、準備を始めようとしていたちょうどその時、撮影カメラを持った見知らぬ男性が、私たちの元にやってきた。この男性はテレビ局の記者で、私たちを取材しに来たのだという。牽亡歌陣の団長は、私たちに撮影していいかどうかを相談するわけではなく、ただ私たちに取材のカメラが入るという事実を告げた。

その「記者」はすぐに、私たちが出演の準備をする様子をカメラで撮影し始めた。彼はカメラを回しながら、私たちにいろいろな質問をしてきた。私は彼が手にしているカメラに興味津々だった。どうやって撮影をするのか、一台いくらするのか、どうすれば撮影した映像をテレビで放映できるのか、知りたいことは山ほどあった。カメラを構えたまま、彼は私の疑問にひとつひとつ親切に答えてくれた。撮影後、彼は私に1枚のチラシをくれた。それはドキュメンタリー映画の特集上映会のチラシだった。彼は自分が撮った作品が上映されるので見に来るといいよ、と私に言った。

誰の人生にでも、運命を大きく変える出会いというものがあるだろう。その「記者」との出会いが、私の人生を大きく変えることになった。

「記者」からもらったチラシを手に、私はバスを2本乗り継ぎ、会場のある誠品書店敦南店へ向かった。それは当時の私にとっては、かなり大胆な行動だった。それまでの一人で出歩くのは徒歩か自転車で行ける範囲だけだったからだ。私は生まれて初めて、きらびやかな複合商業施設へ足を踏み入れた。そこは地方のデパートとも全く異なる、別世界のようだった。私なんかがこんな場所に入っていいのだろうかと、不安だった。地下2階へ向かうと、幸いなことに会場の入り口は人であふれかえっていた。これだけ大勢の人がいれば、私のことなど誰も気にしないだろう。自分に言い聞かせながら平静を装い、入場を待つ列に加わった。

人であふれかえる暗くて狭い上映ホールに座り、私は人生で初めてドキュメンタリー映画をみた。最初に上映されたのは『畢業紀念冊(卒業アルバム)』(訳注・ヤン・リージョウ監督作品)という作品だった。そして続けて上映されたのは『美麗少年』(訳注・ミッキー・チェン監督作品)だった。私はこの時初めて、フィクションではなく、人々の人生そのものを映像に収めた映画がこの世にあることを知った。そこにはサクセスストーリーもなければ、凱旋帰国もない。登場するのも社会的地位が高い人物でもなければ、美男美女でもない。ドキュメンタリー映画の中では平々凡々の人生はまだしも、挫折しボロボロの人生ですらもテーマとなり、貴重な物語になり得るということを、初めて知ったのだった。

そして私がこの時まで「記者」だと思い込んでいた人物は、実は記者ではなく、映画監督だということも判明した。彼の名前はヤン・リージョウ(楊力州)。ヤン監督と彼の撮ったドキュメンタリー作品との出会いは、私に「自分自身のために何かを物語る」ことの可能性を教えてくれた。

その後の数か月間、私は節約してお金を貯め、撮影用のカメラを買った。SONY-TRV900の購入は、家族の物語を映画に撮るという私なりの決意表明でもあった。私はこれから、私の家族のドキュメンタリー映画を作るのだ。

当時の私は、1本のドキュメンタリー映画を完成させるのに、何年も費やすことになるとは、想像すらしていなかった。

「これは私の母の物語です。古いしきたりの残る農村に生まれた母は、いわゆる伝統的な考え方から外れた女性でした。牽亡歌陣を率いる紅頭法師でレズビアン、たばこをふかしながら麻雀に没頭し、セクシーな女性の写真が印刷されたビンロウの箱をせっせと集める、それが私の母です。

母が女の人を好きだということに気がついたのは7歳の頃でした。そして今、7歳になった姪が私に訊ねてきました。

「おばあちゃんは男なの?女なの?」(訳注:台湾語)

言葉では簡単に説明できないと思った私は、映像で彼女にその答えを示すことにしました。」

2012年6月、私は10年前に撮り始めた家族の物語を完成させることを決め、撮影企画の準備を始めた。これはその時に書いたシノプシスの初稿だった。


(翻訳:小島あつ子)

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2020/11/13 13:06