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壊れた母娘関係を正視し、家族の傷を癒すドキュメンタリー
『我和我的T媽媽(同性愛母と私の記録・仮)』を翻訳出版したい!

一部先読み原稿を公開!

こんにちは、サウザンブックスです。
プロジェクト終了まで残り2週間日ほど、ご参加人数は130名を超えました、
ここまで応援いただき、深く感謝申し上げます。

プロジェクト達成に向けて、より多くの方に本書の魅力を広めていきたく、
作業中の翻訳原稿を一部公開いたします!
(原稿は作業中のものになります。完成版とは異なります。)

ぜひ、多くの方への拡散にご協力くださいますでしょうか。
何卒、宜しくお願い申し上げます。

 


私の母・阿女(アヌ)

「奉香拜請 香煙采起 神通萬里 香煙沉沉 請眾神降臨――全知全能の神よ、お香を捧げますと共に、どうぞおわしませ。本日江氏の妻・黄夫人の霊前に、家族が私ども牽亡歌団を遣わせました。山を越え、橋を渡り、あなたの御霊を西方の極楽世界へとお連れいたします。御霊よ、祭壇の神と共に直ちに旅立ちたまえ」

小さなころから聞き慣れた、牽亡歌陣の紅頭法師による儀式開始の口上だ。

牽亡歌陣とは弔いの儀式を執り行う台湾特有の陣頭で、私の家は、近い将来消滅してしまうであろうこの葬送文化に従事している。そして私は6歳から20歳まで、この家業に身を投じた。

そう、日々の糧を得るために私が働き始めたのは6歳のときだ。

物語は私の母のことから始めよう。



母・阿女

母の名前は月女(ルビ:ユエニュウ)だが、母をよく知る人たちは皆、阿女(ルビ:アヌ)と呼ぶ。月と女。名前こそ女性的だが、実際に私の母に会ってみれば、月と女からは想像もつかない風貌に驚くだろう。

1956年、私の母は雲林県北湊鎮の片隅にある小さな農村で生まれた。見渡す限り広がる水田と落花生畑。当時、田畑で育てられていたのは正真正銘の農作物だったし、そこに建つ家に暮らしていたのも正真正銘の農家だった(訳注:地方の地代の安い休耕地に建てられた豪邸「假農舍」(ニセ農家)が社会問題化している)。隣家まで歩いて五分はかかっただろう。延々と広がる、青々とした田畑の中に、ぽつり、ぽつり、と家が建っていた。夏に響き渡るクマゼミやクサゼミの鳴き声と、村人の信仰の中心、春姑婆を祭る寺廟で年に一度開かれる祭りの日を除き、村は静けさに包まれていた。

母には姉が二人と兄が二人、そして弟がひとりいる。他にも何人か亡くなってしまった兄弟もいたらしいが、母は六人兄弟の5番目だった。周りの家庭と同じように、母の家も所有する小さな田畑を耕し、米やトウモロコシ、落花生を育てて生計を立てていた。収入はごくわずかで、六人の子供たち全員を学校に通わせるような余裕はなかった。さらに男尊女卑が当たり前だった時代で、母の二人の姉たちは、小学校すら通わせてもらえなかった。

ところが、母だけは、一家の女の子の中で唯一、小学校に通わせてもらえたという。二番目のお姉さんのおかげだった。母とは十歳ほど年の離れた二番目のお姉さんは、年端も行かぬ頃から台北の工場に女工として働きに出されたので、学校で勉強したことがなく、読み書きができなかった。学校に行けないということがどういうことか、身をもって体験した彼女は、それが社会に出てから如何に不利で苦痛を伴うかということを両親に切々と訴え、妹の阿女だけは学校で勉強させるように頼み込んでくれた。父親が一時の気まぐれを起こし、そんな二番目のお姉さんを不憫に思ったのか、それとも彼女が一家の家計を助けていたからか、理由はよく分からない。だが、二番目のお姉さんの陳情は割とすんなり受け入れられ、母は女兄弟で初めて、村の小学校に通えることになった。

母は兄弟たちとそれほど交流がなかったし、私も叔父や叔母たちとは疎遠にしていたので、母の二番目のお姉さん、つまり私の二番目の叔母が、どうしてそれほどまで強く、女の子にも教育を受ける機会を与えるように主張したのか、詳しいことは分からない。だけど、私は心から叔母のことを尊敬している。あの時代に叔母が主張し勝ち得たものは、正しく、そして重要な事だった。教育を受ける機会は、すべての者に与えられるはずのもので、それは時代や場所、それに性別で区別されるべきではない。

だが、生来の勉強嫌いだった私の母は、二番目のお姉さんがどれほど大変な思いをして、自分を男兄弟と同じようにカバンを背負って学校に行けるようにしてくれたのか、わかっていなかったらしい。当時のことを尋ねても、返ってくるのはおおよそ学校とは全く関係のないことばかりだった。

 

伝統から外れた女の子

子供の頃の母は、五、六歳離れた二番目の兄と弟と一緒に遊ぶことが多かった。母と一番上の姉はちょうど二十歳、一番上の兄と二番目の姉とはそれぞれ十数歳離れていた。二番目の兄と母、そして弟の三人は歳が近かった。就学前は三人で村中を隅から隅まで走り回っていた。畑からまだこれから大きくなるサツマイモを盗んだり、木に登り、熟す前の青いマンゴーを地面に投げたり、溜池でカエル釣りをしたり、田んぼ端でコオロギを捕まえたり、隣村の子供たちを追い回したり、追い回されたりしていた。

学校に通うようになってからも、母と弟はカバンを背負っていろんなところを走り回っていた。比較的聞き分けの良い二番目の兄だけが、学校に通い、まじめに勉強した。母の記憶によれば、勉強道具が入っていないはずの弟のカバンは、他の子供のカバンより重かった。弟のカバンには、拾い集めてきたいろんな形の、大小の石と、お手製の石投げ用のパチンコが入っていたからだ。弟はそれを使って、林の中で小鳥を獲っていた。一方、母のカバンは、おやつ用にこっそり摘んだり、掘ったり、抜いたりした農作物を入れるために、常に空っぽにしてあった。

農作物を盗み食いし、怒った農家の人に追いかけられるくらいしか、村の生活には楽しみも刺激的なこともなかった。幼いころの母は何を考えていたのか、どこからかマッチを見つけ出しては、こっそり豚小屋に火を点けた。それから素知らぬふりをして、他の子供たちと一緒に慌てふためく大人たちを遠巻きに見ていたという。パニックになって走り回る豚を見るのは、すごく興奮したし面白かったんだよ、と母は言う。母が火を放った豚小屋は一か所だけではなかったらしい。幸いなことに豚は無事だった。

母が学校でまじめに勉強した時間はとても少なかったが、テストの成績はほどほどに良く、五十人クラスで、いつも十番前後くらいだった。後ろから二番目だった弟に比べれば、母は兄弟のなかでも比較的出来のいい子だったと言えるだろう。だが、兄弟に比べて出来が良かったからといって、母が学校に行って勉強する時間が延長されることはなかった。小学校を卒業した母は、家事と農作業を手伝うために、それ以上学校に通うことはなかった。勉強を続けるということは、いたずらに家計を圧迫するだけでなく、嫁の貰い手がなくなると恐れられていたのだった。

農村に生まれた女の子には、台所仕事をするか、農作業を手伝うしか道はなかった。だが母はそのどちらも向いていなかった。そのせいか、母は祖父の考え方が大嫌いだった。加えて村で問題ばかりを起こしていた母は、毎日のように祖父に追い回されては、叩かれた。母に言わせれば、祖父は気まぐれで短気で、極端な男尊女卑の考え方の持ち主だった。六人の子供のうち、男の子三人には祖父が自ら小遣いを渡していたが、女の子たちが小遣いを手にできるのは、特別にきつい家の手伝いや農作業をしたときだけだった。

祖父が怒り出し、叩かれそうになると、母はすばやく家の外に走って逃げた。収穫した米や落花生を天日干ししている庭をすり抜け、さらに遠くのサツマイモ畑まで駆けていき、身を隠した。そうでなければ大きな木を捜し、祖父に見つからないくらいの高さまで登ると、木の上に腰かけ、田畑で祖母が農作業を終えるのを待った。祖母がゆっくりと家に戻る姿を確認してから、母も木から降り、祖母と一緒に家に戻るのだった。

母の人生の中で、母を一番大切にしてくれて、母が一番頼りにしていた人物を強いて挙げるなら、それはたぶん祖母だろう。

祖母は母を可愛がり、いつもこっそりとわずかばかりの小遣いをくれたという。農作業を手伝わせる時も、母をこき使うことはなく、また、母を追い回し叩こうとする祖父からいつも守ってくれた。それは傍から見れば、取るに足らない些細なことかもしれないが、母がそのことを根拠に祖母に全幅の信頼を寄せ、祖母から自分は愛されていると信じるに十分だということは、私にはよくわかる。一生傷つけるようなことも、あるいは愛されていると感じさせ、人生を支えてくれるようなことも、往々にして、他人から見ればどうってことのない些細なことに起因する。そのとても小さなカケラは、心の奥深くにある隙間に潜り込み、しっかりと記憶されるのだ。

そして祖母の次いで母の中で存在感が大きかったのは、母の祖母のようだ。

男尊女卑主義の祖父から小遣いをもらうことはできなかったが、母には他にも方法があった。弟から小遣いを巻き上げる知恵を働かせなくても、気合を入れて自転車を漕ぎ、隣村に住む曾祖母を訪ねればよかったのだ。曾祖母は優しい人で、会いに行くとくたびれ破れてしまった服を、ひと針ひと針丁寧に繕ってくれた。だが母が曾祖母を好きだった理由は、遊びに行くと必ず小遣いをくれるからだった。ある時は二銭、ある時は三銭、と六人の孫全員に、性別や年齢に関係なく、皆に平等に小遣いをくれたのだ。

曾祖母の家から戻る母に曾祖母が持たせてくれたのは、ポケットの中で鳴り響く小銭のだけではなかった。ちょっとしたおやつを持たせてくれたそうだ。よく持たせてくれたのは白麺線だった。沸騰したお湯で、ただ湯がいただけの真っ白い麺線は、母の大好物だった。毎日、毎食、家で細切りのサツマイモを食べていた母にとって、味付けのされていない白麺線は、ただそれだけで大変なごちそうだった。曾祖母は母にお小遣いや麺線をくれたので、母が祖母に次いで二番目に大好きな人だった。

母と弟が村の小学校で読み書きを習い、子供時代を過ごしていた頃、一番上の姉と二番目の姉は若くして嫁いでいき、次々に子供を産んでいた。一番上の兄と二番目の兄も、中学を卒業すると村を離れ、北部の都市で建設作業員として働き始めた。私の母・阿女(アヌ)も、本来ならば姉兄たちと似たり寄ったりの道を、一歩ずつ追っていっただろう…彼女が女性を愛することなく、また、嫁いだ相手が酒乱で家族に暴力を振るう男でなかったならば。

そうでなければ母の人生は全く違うものになっていたはずだ。

そして、私の人生もまた、まったく違うもものになっていただろう。

 

阿女、社会に飛び出す

1970年。14歳になった私の母は近所の同じくらいの歳の子たちと一緒に、北港の実家を離れ、台北で仕事に就いた。最初の仕事は、新荘中正路にあった紡織工場での見習い工員だった。当時の台湾は紡織業が全盛期で、外貨を稼ぐ輸出産業の重要品目となっていた。  紡織工場は大量の雇用機会を創り出し、南部の農村から東部の原住民部落に至るまで、各地から大勢の若い女性たちが見習い工員として台湾北部の工場に動員された。

台北の工場に就職してしばらくは、母はしょっちゅう布団を頭から被って泣いていたという。来る日も来る日もお母さんが恋しかった。そしてこっそり工場を抜け出し、実家に戻っては、家族に言われて台北に戻る、を繰り返した。田舎の農村には働き口がないし、将来性もないから、若い娘が村に留まっても、家族の負担が増えるだけだと説得されるのだった。

台北と北港を何度も行き来しながら数年が過ぎ、母は19歳になった。人生で初めて恋人ができ、ようやく落ち着いた母は、その後、毎日実家を恋しがるようなこともなくなった。

紡織製品の輸出量がピークだった頃は、端午の節句や中秋節、春節を除き、工場は無休で昼夜を問わず稼働していた。工場内では女の子たちが機械に囲まれながら貴重な青春時代を費やし、外貨を稼ぎだす製品を造り続けた。製造ラインの仕事にすべてを捧げる女の子たちは、休暇ともなると大挙して遊びに出かけ、日々の過酷な労働のストレスを発散させたり、地元とは全く違う都会の風景を楽しんだりした。

私の母が工場仲間と連れ立ってよく遊びに行ったのが、工場の近くにあった寺廟の仲見世だった。そこに行けば歌仔戯(ルビ:コアヒ)(訳注:台湾の伝統芸能の一つ、台湾オペラ)の野外公演を無料で楽しむことができたからだ。有料の娯楽や観光施設や、映画を見に行くのに比べると、無料で楽しめる歌仔戯は、経済的に余裕のなかった彼女たちにとって最も都合のいい時間潰しだったのだ。

母が最初の恋人と知り合ったのも、寺廟に歌仔戯を見に行った時だった。母は観客で、彼女は舞台の上で美しく着飾った役者だった。

舞台役者との馴れ初めを、母はあまりはっきりとは教えてくれない。だがおおよそこんな風だったようだ:ある夏の日のこと。舞台用の化粧でびしっと決め、白い上着に白い長ズボンを穿いた彼女は、全身真っ白い雪のようで人目を引いていた。舞台の最中、突然雨が降り始めた。舞台には庇が付いていて雨が降っても大丈夫なようになっているが、屋外に設置された客席には雨を遮るものが何もなかった。舞台上の彼女は、母が雨に濡れてしまうのではないかと心配し、傘を持ってきてくれたそうだ。おかげで母は雨が降る中、舞台を最後まで楽しむことが出来た。

舞台は幕を閉じたが、雨が降り続く中、今度は舞台の下で新たな物語がスタートした。

舞台を見終わった母が傘を返しに行くと、その美しい役者は傘をそのまま母に持たせ、さらに彼女の電話番号と住所が書かれた紙きれを母に渡してきた。そんなこんなで母と彼女は電話で愛をささやきあるようになり、一年もしないうちに母が工場の宿舎を出て、彼女の家に転がり込んだのだった。

母と彼女は歳が近く、知り合ったとき二歳年上だった彼女はまだ二十一歳で、両親と一緒に暮らしていた。面白いことに、彼女の両親はある日突然見知らぬ若い娘が「ここに住まわせてくれ」と言われたにも関わらず、あれこれ聞きだすこともなく、嫌な顔ひとつせずご飯を作って食べさせてくれたそうだ。

母と彼女が一緒に暮らした約二年間、彼女が舞台に立つときは、母も必ず一緒に行って、舞台の下から見守り、終わると一緒に帰宅した。その頃の母は、再び工場で仕事をする気を失くし、以前に紡織工場で貯めた金を切り崩しながら生活していたが、住むところも食べ物も彼女の家が提供してくれていたので、実際はほとんどお金を使うこともなった。思うに、このころが私の母の人生で唯一のいわゆる「ジゴロ」な状態だった。というのも、その後の母の交際では、母が金を支払い恋人を養う「パパ」であって、恋人に面倒を見てもらうことはなかったからだ。

母の最初の恋人は歌仔戯のお客さんにも人気で、多くのファンがいた。平日の舞台がない時には、いろんな誘いを受け、彼女はしょっちゅうご飯を食べに行ったり、遊びに出かけたりしていた。そんな時母は、誘いを断って家にいればいいのにと彼女に言ったが、ファンのためだからと、彼女は出かけて行ってしまった。やがて次第に彼女が遊びに出かけていく機会が増え、母と彼女は些細なことで口論するようになった。一旦機嫌を損ねると、数日間は互いに相手の話を聞かなくなった。そんなときは彼女の母親が二人をなだめ、仲直りをするのだった。

喧嘩をしても仲直りしていた二人だったが、問題の根本的な解決ができず、二人の間に生じた亀裂は自然に元に戻ることができなくなってしまった。それは愛情の問題だけでなく、ありとあらゆることがそのような状態になってしまった。いつものように喧嘩をした二人はある時ヒートアップしてしまい、母は彼女がプレゼントしてくれた洋服から指輪に至るまで、すべてのものを床の上にきちんと並べ、一人毅然と彼女の家を出て行った。その時、母は二十一歳だった。一年半あまり続いた初恋はそこで終わり、仕事もなく、金も愛情も失ってしまった母は、北港の実家に戻り、父母を頼るしかなかった。

 

初恋のおわり、結婚生活の始まり

1970年代の農村にとって21歳の独身女性というのは、皆の頭を悩ますものの筆頭だった。結婚していないというのはつまり、将来的に頼れる相手がいないというだけではない。嫁に行かない娘がいるということは、近所のおばさんたちの格好のゴシップネタにされてしまう、ということなのだ。大方の予想通り、地元に出戻った母を待ち受けていたのは、家族からの「結婚しなさい」という、期待とプレッシャーだった。

祖母は嘉義に住む大叔母を訪ねるという名目で、母を見合いに連れ出した。相手は阿源という男で、母より五歳年上の客家人だった。初めての顔を合わせは、母と見合い相手の阿源のほか、祖母、大叔母そしてその弟、さらに阿源の家族という、多くの人に取り囲まれて行われた。一目見た時から、阿源に対する母の印象は良くなかった。醜く凶暴そうな面構えに残忍な目つき。好い人ではない、と直感したという。ただ、大叔母の弟は母に、人は見た目で判断できないし、人が好すぎる男性は社会で騙されやすいのだから、あながちいいとも言えないのだよ、と説得した。

見合いの席で、阿源に対し不満を抱いたのは母以外に誰もいなかった。それで、母は二度目に阿源に会ったときに、結婚することを決め、彼に付いて北部での生活を始めたのだった。

母が当時、この結婚に抵抗しなかったのは、家族が彼女の背中を押したこともあるが、多少なりとも別れた恋人への当てつけもあった。

母と恋人は分かれてほどなくして、それぞれ別の人と結婚した。それからしばらくして、再び連絡を取り合うようになってから、どちらも結婚生活がうまくいっていないことを知った。だが、相手に手を差し伸べようとか、状況を改善しようという余力も、お互いになかった。

結婚は、思い描いていたものとは違っていた。嫁ぐ前の数日間、母はこの現実を受け入れようとしていた。塗装工としてあちらこちらでペンキ塗りの仕事をする阿源と一緒になり、阿源が仕事に打ち込み金を稼げるように、自分が助けになれば、将来的には自分たちの家を構えることもできるのかもしれない、と考えた。阿源が家族や私たちを養ってくれるのなら、一生添い遂げてもいいと思ったんだよ、と母は言う。他の女性と同じように、男性に養ってもらう人生はどちらかといえば気楽で簡単、それにややこしくなくていい——母は、自分が心から愛せるのは女性だということを自覚していたのだった。

幸か不幸か、母が嫁いだ阿源は、そういうタイプの人間ではなかった。

結婚後間もなく、阿源が大変な酒飲みで博打好きなくせに、ろくに仕事をしないことが分かった。さらに悪いことに、阿源の気性は祖父よりさらに荒く、切れやすかった。しょっちゅう酔っぱらっては、母を大声で口汚く罵り、遂には母に手をあげることも珍しくなくなってしまった。だが母は夫から暴力を振るわれていることを、祖母に知られまいとしていた。心配をかけたくなかったのだ。しかも母のお腹の中にはすでに私がいた。母の味方になって経済的に支えてくれるような人もいなかったので、母は一日一日をただひたすら耐えるしかなかった。

母は結婚した翌年に私を産んだ。二十二歳の時だった。出産後は父に建設現場で塗装工の仕事を続けてもらうしかなかった。赤ちゃんを連れて工場で女工として働くことはできなかったからだ。母は家に籠り、私の世話をするのに手一杯だった。父が真剣に働いて、家計を支えてくれるようになることを期待するしかなかった。

そして母の期待が現実のものになることはなかった。父には親になった自覚も、一家の大黒柱である自覚もなかった。以前と変わらず、すっからかんになるまで酒を飲み、ギャンブルに興じた。塗装工の仕事を二日やっては日銭を稼ぎ、それをすべて酒場と賭場に落としてきた。

しばらくの間は、母は同じく北部に出稼ぎに来ていた三人の兄姉に金を借り、何とか自分自身と私の糊口をしのいだ。だが、それも長くは続かなかった。それぞれに事情を抱えた兄姉に、ずっと頼るわけにもいかなかったのだ。母は妹を産んだ後、自分が働きにでて金を稼ぐしか、私達母娘三人が生き延びる方法はないと考えた。

 

亡魂を弔い、家族を養う

母は近所に私と妹の面倒を見てくれる子守りを見つけてきた。月極の保育料は支払うことができないので、仕事のある日だけ私たちを子守りに預け、工員時代に知り合った友人と一緒に、葬式を取り仕切る牽亡歌陣で働いた。

工員として工場で働いていた頃、母はしょっちゅう寺廟の門前に演劇を見に行っていたのだが、その時に牽亡歌陣の仕事と出会ったそうだ。ある時、舞台の周辺で女の子たちに牽亡歌陣を学びながらアルバイトしないか、と声をかける人がいた。母は他の子たちと一緒にその仲間に加わることにした。だが牽亡歌陣の仕事を覚えるのは、思っていた以上に大変だった。歌や口上を覚えなければならないだけでなく、ブリッジや開脚、とんぼ返りなど、わかりやすく言えば雑技団のような技ができるようにならなければならなかったのだ。スカウトされてやってきた女の子たちは、皆音を上げて去っていき、冷やかしで来たはずの母が最後まで残った。母は基本的な動作をマスターし、しばらくの間、アルバイトとして牽亡歌陣に出演していた。

牽亡歌陣の仕事は毎日あるわけではない。だが仕事の拘束時間のわりに、実入りがよかった。さらに都合がいいことに、仕事をしたその日に現金を手にすることができたので、生活費を稼ぐことが喫緊の課題だった母にとっては、これほど条件のいい仕事もなかった。私が四歳に、妹が二歳になり、自分の足で歩いて、ひとりでご飯が食べられるようになると、母は私たちを牽亡歌陣の仕事に連れて行くようになった。日払いしていた子守り代も、節約できるようになった。

牽亡歌陣の仕事に出かける日は、スクーターの後ろに妹を座らせ、母とハンドルの間のステップに私を立たせ、母娘三人で中和の家から集合場所の萬華の団長の家に行き、他の団員合流し、その日の仕事場へと向かった。演目を始める前に、母は背もたれのない腰掛を二つ、喪家の人たちの席の傍らに用意し、私と妹に駄菓子を持たせて座らせた。私たちはそこにおとなしく座り、おやつを食べながら母の仕事が終わるのを待った。

それからさらに二年が経ち、六歳になった私は、片隅でおとなしく母の仕事が終わるのを待つ組から、最年少の団員として牽亡歌陣に出演する組へ進んだ。

母が覚えさせたのか、それとも自分からやり始めたのか、今となっては記憶があいまいなのだが、母や他の団員たちが、開脚やブリッジをしたり、側転したりするのを、何となく見様見真似で身体を動かし始めたのは、自然なことだった。同じように社会の底辺で育った子供たちは、家が夜市に店を構えていれば、親と一緒になって客の呼び込みをするようになるし、食堂を営んでいれば、皿を下げるようになる。それは理屈ではなく、彼らにとって生活の一部だからだ。

私が牽亡のパフォーマンスを覚えた最初の一年、母が所属していた陣頭は人手が足りていたので、母は私を別の陣頭に派遣した。私が覚えているのは、派遣先の陣頭を率いる団長夫妻が台北橋の近くに住んでいたことと、団長の奥さんの名前が「阿蓮」だったということ。そして、その阿蓮さんがハスキーボイスで団員をまとめていたことと、細かな事をあまり気にしないおおらかな性格の持ち主で、とても良くしてくれたということだ。阿蓮さんに初めて会った時、母は私に「阿蓮母さん」と呼ばせた。それは阿蓮さんと母の仲が特別良かったというわけではなかった。母は母の女友達のことを、その人が既婚だろうが未婚だろうが、私に「〇〇母さん」と呼ばせたのだった。阿満母さん、淑美母さん、妮妮ママ、阿醜母さん…それは、彼女たちに私たちの面倒を見てもらうための、母なりのある種の生存戦略だったのかもしれない。

その頃の母は、仕事が入ると私をスクーターに載せて台北橋に送り届け、それから別の陣頭で仕事をするために、萬華に向かったが、やがてそれが面倒になってきた。他所の陣頭で何年も経験を積み、仕事の段取りを心得ていたこともあり、母は自分の牽亡歌団を結成することにした。自分が団長を務めれば、仕事が入る度に他人(ひと)の家に集合する必要がなくなる。ただ家の中で、仕事の依頼が来るのを待てばよいのだ。

 

起業と事業

牽亡歌団の結成は、実はそれほど難しくはない。数万元用意し、スピーカーとマイク、アンプ、そして三弦琴と法師の持つ道具や楽器を買いそろえ、儀式の要となる、棚轎や舞踊者たちの衣装などの道具をオーダーメイドすれば、ハード面の準備は完了だ。それよりも、立ち上げた団に所属してくれる人員を集めることの方が難しい。

牽亡歌団は六人で成り立つ。前場舞踊者が三人、法師がひとり、三弦琴奏者がひとりと、あとは運転手だ。三人の前場舞踊者は簡単に集めることができた。母は私を伴い、同じように牽亡歌団を転々としていた仕事仲間の姉妹に、うちに来ないかと声をかけた。これで舞踊者はそろったが、法師と三弦琴奏者探しは難航した。というのも、この二者は儀式で歌を歌い、口上を唱えるというとても大事な役割を担うので、誰でもいいというわけにはいかないのだ。牽亡歌団の儀式の流れや、やり方が分かっていて、尚且つそれがこなせる人物でないといけなかった。

当時母の知り合いといえば、ほとんどがどこかの陣頭の正式なメンバーだった。陣頭のパフォーマーというのは、いわゆる芸能人のように契約書を交わして仕事をしているわけではないが、団長と団員の間には不文律の決まりごとのようなものがあり、双方によほど不愉快な出来事や、やむを得ない事情が生じない限り、団員が突然団を辞めたり、他の団に移ったりするようなことはなかった。母は高いギャラを提示することで、他の団の法師と三弦琴奏者を引き抜いた。二人の貴重なメンバーを迎え入れ、母は自分の牽亡歌団を正式に設立させた。シンプルな白地の名刺には、大きな文字で「阿女牽亡歌団および各種陣頭」の文字と、中和にある自宅の電話番号を載せた。そしてその日から、当時二十八歳だった私の母には、女性起業家という肩書が加わった。ビジネスを始めたからには、それがどんな内容であろうが、金を稼ぐための、それ相応の付き合いというものが不可欠になる。葬式陣頭も例外ではかったため、牽亡歌団を立ち上げてからというもの、母は以前にも増して家を空けることが多くなった。他の陣頭を手伝っていた頃は、団長から出陣の要請を受けて仕事に出れば良かったが、自分が団長になってからは、出陣しない時でも家の外で「仕事」をしなければならなくなった。ただし、その仕事というのは、相手の陣頭仲介人——つまり葬儀社の社長によって様々だった。おしゃべりをし、お茶を飲み、たばこをすすめる。ビンロウを嗜み、それから象棋麻雀(ルビ:シャンチーマージャン)の相手もした。場所は葬儀社の店内でなければ、葬儀社街からそう遠くない、中和大廟の門前だった。

思うに、母の人生における“事業”の方向性がほぼ決まったのはこの頃だ。

“事業”というのは牽亡陣頭のことではない。母に言わせれば、それは世を忍ぶ仮の姿に過ぎないらしい。

勝負があっというまに決まる象棋麻雀こそが、母の人生における、実入りの良い、一大事業になったのだった。

母の左手薬指の側面には、黒々とした痣がある。占い師に見てもらったとき、これは、身に着けたいと思う技術を、素早く上手に自分のものにすることができる、とても縁起の良い痣だと告げられたそうだ。霊も神も一切信じない母だが、占い師に言われたそのことだけは素直に信じた。独学で牽亡陣頭を学び牽亡法師になれたのも、象棋麻雀のルールをすぐに覚え、上家下家がどの牌を待っているのかが分かるようになったのも、全て左手薬指の痣のおかげだと思っている。

もともと象棋麻雀を覚えたのは、葬儀社の社長たちと対等に渡り歩くためだった。始めたばかりの頃、母は勉強代とばかりに少なくないかけ金をつぎ込んだため、社長たちからは恐れ知らずの新参者として、好意的に仲間に加えてもらえた。だが、母はもともと呑み込みが早いところがあり、金を賭けつつ象棋麻雀を覚えていった。しばらく経つと、だんだんと麻雀仲間の癖がわかってきた上に、聴牌の気配を感じ取れるようになっていった。やがて始めたばかりのころから状況は一変した。母の勝率は次第にあがり、負けることが少なくなり、とうとう「金稼ぎのアヌ」というあだ名をつけられるまでになった。賭博は金を稼ぐことができる。それにどんな仕事と比べても、気楽で労力もいらない。大変な思いをする必要もない、まったく完璧なものだということを、母はこの頃知ったのだった。

賭博といえば、父親のことを思い出さずにはいられない。

一日中賭場に入り浸っていた父の「賭博好き」のレッテルの背後には、妻に良い暮らしをさせるためにもっと金を稼ぎたい、という気持ちはあったのだろうか?ただ運に見放されただけの父は、負けが込むとそれを挽回しようとしてさらに金をつぎ込んだ。そしてつぎ込めばつぎ込むほど、家族に対する面目が失われていったのだった。そしてその悪循環が極限まで達したときには、全ては取り返しのつかない、奈落の底へ落ちてしまった。身を翻すのはおろか、そこから這い出すことができないほどに深い、奈落の底だった。

物事が上手く運ばない時、どんなに善良な人間であっても、人は落ちていく。母は良い人生は送れなかった。だが、少なくとも母には、ほんの少しだけ運の良さがあった。だから私は運命に感謝したい。

母は時々賭博の現場に私と妹を連れて行くことがあった。母と葬儀社の社長たちが麻雀を打つ間、私と妹は社長の子供たちと一緒にままごと遊びをしていた。それはどうってことのない風景だったが、その風景をカメラでズームしたならば、それはある種のユーモア、フィルムノワールの虚無的なユーモアに満ちていたかもしれない。

葬儀社の店内には、色とりどりの、いろんな材質でできた骨壺や、大小さまざまな供花や缶タワー、ご先祖様を祭る牌に招魂の儀式に用いる旗、供養のための男の子と女の子の小さな紙製の人形などの各種祭壇周りのものから、彼らの主力商品——手作りオーダーメイドの棺桶にいたるまで、彼らの取り扱う商品がところ狭しと並べられていた。場所を取る棺桶は、普段は上蓋を開けた状態で、店内をぐるりと取り囲むように壁に立て掛けて陳列され、二基だけが店の中央に置かれていた。一基は、ちょうど外側が塗られ内部に細かな細工が施されたばかりの、近いうちに出荷される棺桶で、もう一基は上蓋に塗りが施されていない、木そのものの色のもので、長年そのままそこに置かれっぱなしだった。葬儀社の社長は、まだ歩きまわることのできない乳幼児を、放置されている方の棺桶に寝かしたり、中で遊ばせたりしていたので、棺桶はさながらベビーサークルの役割を果たしていた。供養に用いる小さな紙製の人形は、そのベビーサークルの中でバービーとその恋人のケンの代わりとなり、幼子たちを楽しませていた。

そんな風に店内の大部分は棺桶に占拠されていたので、店に残されていた空間は大人たちが麻雀用のテーブルを出すたびになくなってしまい、子供たちは、立て掛けられた棺桶と棺桶の隙間で注意を払いながら遊ぶしかなかった。ちょっとでも動き回ろうものなら、大人たちに「棺が倒れて、ぺちゃんこに潰されるぞ」と大きな声で怒鳴られ、その度に子供たちはびっくりしておしゃべりの声をひそめるのだった。

葬儀社の社長たちと一緒に過ごす母は、大抵の場合楽しそうに見えた。口数も多く、朗らかで、家の中にいるときの、黙りこくった様子とは全く違っていた。だが大声で笑っているからと言って、母がその状況を心から楽しんでいたかどうかはわからない。母は廟会の陣頭に登場する、大きなお面をかぶった三太子の演者のようだ。口を開け、笑顔を浮かべた大きなお面の中で、演者がどんな表情をしているかなんて、誰にもわからないのだ。

母がせっせと接待に精を出した甲斐があったのか、私たちのパフォーマンスが評価されたのか、我が家の牽亡歌陣の経営は次第に安定し、それに伴い母が葬儀社で麻雀接待に勤しむ回数は減っていった。やがて葬儀社の社長から代金を回収するために、母は私を葬儀社へよこすようになった。私がお金の回収をしてくる間、母はテレビで大好きな「豬哥亮歌廳秀」を見ながら、私の帰りを待っていた。

母は私が回収してきたお金を受け取ると、床の上に座り、ギャラの分配をした。まず、全部でいくらあるかを確かめ、私が間違いなく回収してきたかどうかをチェックする。それから団員の役割に応じて紙幣を分けた。もちろん私達母娘の分も、この時に取り分けた。それから、分けたギャラを一人分ずつ輪ゴムでしっかりと留めた。そして自分たちの分は、紙幣の金種別にさらに分けると、二百元札、五百元札、千元札はそれぞれ小さく畳み、家のあちらこちらにしまい込んだ。達欣印のビニルでできた衣装ケースの中や、木製のサイドテーブルやベッドのヘッドボード、ある時はベッドのフレームやフレームとマットレスの間に隠すこともあった。いつも、いろんなところに隠したので、母自身でさえも、どこにしまい込んだのかを忘れてしまい、家じゅうをひっくり返して捜しまわるのだった。

母がどのようにギャラを分配していたのかは未だにわからないのだが、母がどうして私たち母娘の分のお金を、家のあらゆる場所に隠す必要があったのかは、私にも理解できた。

二人の子供を抱えた母に、父が生活費を渡すことはなかった。そして母が牽亡歌陣を結成し、自分で金を稼ぐようになると、父は母に金を無心するようになった。

暴力を振るい、母を脅して、手元に置いていた現金から銀行の通帳と印鑑に至るまで、すべてを巻き上げたのも一度や二度ではない。母がコツコツと苦労して銀行口座に貯めた金も、結局最後はすべて、父の賭博や酒代に消え、母は再び無一文状態になってしまうのだった。どんなに家から離れた銀行にお金を預けたところで安全ではない、と経験から学んだ母は、貯金することをあきらめ、現金を小分けにして家じゅうのいたるところに隠した。運が良ければその中のどれかが手元に残るのだった。

牽亡歌陣の仕事が順調だった頃、母は夜市の宝飾店で金のアクセサリーを買い、現金と同じように家の中に隠した。私と妹の身にも着けさせた。私達に持たせるのは、赤い糸に金製のペンダントヘッドをつけた首飾りだった。ペンダントヘッドを服の下に隠してしまえば、傍目には子供がよく首からぶら下げている赤い糸の付いた廟のお守りのようにみえるので、どこに隠すよりも安全だったのだ。

金の値打ちは安定しているからと、母は現金があるときは金を買い、現金が足りない時は金を売り現金に換えた。金の価格が低い時に買い、価格が高くなったら売ることもできただろうが、母にはそんな考えはなかった。母が必要としていたのは、父に一度にすべてを持ち去られないようにするための、リスクの分散だった。

父が家に隠された現金や金目のものを持ち出したことが発覚するたびに、私と妹に緊張が走った。母もかなりの短気で切れやすく、いともたやすく私や妹を狂ったように叩いたのだ。竹の棒や鉄のハンガー、プラスチック製の水道管。母は何だって私達をぶつための道具にした。竹の棒が折れ、ハンガーが曲がるまで、怒りは母を狂った獣に変えた。まるで母に父が憑依したかのようだった。私達は泣きながら地べたにうずくまった。しばらく時間が経つと、母は徐々に人間性を取り戻した。泣きながら私たちの傷に薬を塗り、私達が唯一頼ることのできる母親へと戻るのだった。

暴力は病原菌のようなものだ。拡散するし、伝染するのだ。

 

逃避の必要

緊張感にさらされた、ごく一般的な安全感のない、スパイのような生活に耐えられる者などいない。十年耐え忍んだあと、母は遂に父のもとから離れる決心をした。母に言わせれば、私と妹を連れて家を離れる前、準備のための時間はそれほどかからなかった。というのも、何も準備することなどなかったからだ。母が唯一必要としたのは、誰を連れて行くかを考える時間だった。

母はもともと一人で家を出るつもりだった。貯えも無ければ、明るい未来もないところで私と妹のふたりを連れ出しても、母娘三人がたどり着くのは、やはり悲惨な結末だけだった。だが、娘たちを置いていけば、二人とも間違いなく不幸なことになるだろう。それではどちらかひとりを連れて行くのか?子供ひとりなら母でも養うことができるかもしれない。でも、残された方はどうなる?あらゆる場合を考えに考えて、母が出した答えは、私と妹の両方を連れて出ることだった。生活が立ち行かなくなったら、三人一緒に死ぬことはできるだろう。それならば後ろ髪をひかれることもない。

先が見えないというのは恐ろしいことだが、最悪の事態を想定しておけば、それ以上に怖がる必要もない。その後、母は普段と何も変わらないある夏の日の午後に、家じゅうに隠しておいた何千元もの現金を取り出し、配偶者欄に父の名前が記された身分証を持って、私と妹を連れて家を出た。

その時母は32歳だった。三十年余りの人生で、母が初めて自分の人生の決断をしたのが、この逃避だった。

家の前に母が呼び寄せておいたタクシーは母と私と妹を載せ、停まることなく前へと進んだ。向かっているのは先の見えない不安だったが、未来へと向かっていた。

(翻訳:小島あつ子)

2020/11/02 18:37