こんにちは、サウザンブックスです。
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先読み原稿の第四弾を公開致します。
プロジェクト最後まで、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
第一部 ビール造りは女たちの仕事
二章
一二五十年、フリードリヒ二世の死をもって二百年続いたシュタウフェン朝時代は多様な素晴らしい文化を後に残し、その影響は神聖ローマ帝国内はじめ他のヨーロッパ地域にも及んだ。
パリとボローニャでは最初の大学が設立された。アッシジのフランチェスコとドミニコ会士は重要な修道会を創立した。
すでに長期にわたって続いていた教皇と皇帝の対立は、フリードリヒ二世の死後双方の軍の弱体化を招き、一二五六年から一二七三年まで続く、いわゆる「大空位時代」が訪れる。その後、ハプスブルク家のルドルフがドイツ王となった。
シュタウフェン朝の終焉後、教皇政治は世俗勢力に対する勝利を確信し、全権力を行使した。教会の富にひき比べ、庶民の貧困はヨーロッパの広範囲において想像を絶した。
こうした変化と(勃興)興隆の真っただ中の一二四八年、ニュルンベルクから四十キロほど離れたハーンフルトというフランケン地方の村で、ニクラスは隷農ミヒャエルの息子として生まれた。ミヒャエルも、また同じく農家の出である妻のエリーザベートも、政治や文化の変化には疎かった。ホーエンツォレルン家が一一九二年にニュルンベルクの城主となってからは領主が変わるだけで、一般の人々の生活状況に変化はなかった。生活は困難で、日々の糧を得るのに骨を折り、領主と教会へ納める年貢に苦しめられていた。
家族を養う苦労から、みな早く老けた。ニクラスの父も三四歳にしてすでに老人のようだった。背中は曲がり、心労によるしわが顔中に刻みこまれていた。母も結婚して一二年経つうちに、ミヒャエルが結婚を申し込んだ決め手の多くをなくしてしまった。以前はふっくらしていたバラ色の頬も、今では精彩がなくなった。それにやせてしまった。
一歳の誕生日を迎えられなかった最初のふたりの子供をはじめ、合計七度もの出産は、こけた顔以外にもその痕跡を残していた。
ニクラス誕生には予兆があった。出産が近づくと太陽がふいに姿を隠し暗くなったかと思うと、外では稲妻が光り、嵐が吹き、雷が轟いた。真っ昼間にもかかわらず、出産部屋はまるで真夜中の蝋人形館のようだった。出産が無事終わって、太陽が再び顔を出し、エリーザベートが赤子を抱き上げてみると、生まれてきたニクラスは(丈夫そうではなかった)弱々しかった。
ミヒャエルは、また以前と同じように、牛乳かビールを与える間もなく洗礼を施さなくてはならないのかと心配した。しかしエリーザベートはミヒャエルに赤ちゃんをゆだねると、母としての直感で、こうささやいた。
「今日の兆しを信じるわ。この子はきっと元気になる。ニクラスと名付けましょう。一週間以内に洗礼を受けさせましょう」
子供は原罪から解かれるよう、生まれるとすぐ十日以内には洗礼を受けていた。エリーザベートとミヒャエルは、洗礼を受けた子供の方が受けない子供より生き延びるチャンスがあると信じていた。妖精たちが、まだ名もなく洗礼も受けていない、よその赤子たちを連れ去ろうとも、洗礼を受けたうちのニクラスには手は出させまい。
エリーザベートの直感は当たった。しばらくすると、ニクラスは生き延びる力があるとわかった。ニクラスの誕生をきっかけにまるで呪縛が解けたかのごとく、その後生まれてきた子に急いで洗礼を受けさせる必要はなくなり、二年おきに元気な子供が生まれていった。次男マティアス、長女エリーザベート、次女ルート、そして三女のアーデルハイト。
ニクラスは六歳まで両親の元でできる限り守られて育った。それは、生き延びた最初の子を事故や病気で失うことを恐れた両親の配慮のおかげだった。
その一方、二人はその日その日を生きていくのに忙しかった。ミヒャエルとエリーザベートは、常に空腹を訴える子供たちの腹を満たすだけで精一杯だった。おかげでニクラスはあちこち歩き回ったり、冒険したり、他の子供たちと喧嘩したり、その他様々なことをすることができた。
こうした憂いのない日々は、六歳の誕生日と同時に終わりを迎えた。緊急の洗礼が必要かと思われるほどひ弱だった赤ん坊は、この頃には利発な少年に育っていた。他の子より大きく強いわけではなかったが、しょっちゅう取っ組み合いをしていたおかげで粘り強くなれ、みなからも一目置かれていた。
さらにニクラスの生き生きとした目、上を向いた鼻、もじゃもじゃの髪が見る者に訴えかけていた。「侮るなよ!」と。
ちょうど母が三人目の赤ちゃんを産んだところで体が弱っていたため、ニクラスは家事の手伝いを始め、母の仕事をできるだけ肩代わりした。
だが新しいことを始めた時のワクワクした気分は長くは続かず、ニクラスはすぐに家事に飽きた。そうなると何もかもが、骨折れ仕事に感じられ、毎晩疲れ果てて寝床に倒れこんだ。小さな少年には重労働でも、母には大いに助けとなる。もうくだらないことを考えている余裕はなくなった。
当時の最大の慰めは、父と一緒に畑に出るには小さすぎることだった。一二歳の誕生日が来たら畑へ連れていくと言われていて、その日が来るのをニクラスはひそかに恐れていた。人生の厳しさに直面するからという理由もあるが、それだけではない。
父親が息子を一二歳の誕生日に畑へ連れていくのは、その当時のしきたりだった。畑で、父親は息子に、隣との境界線として並べている石を見せ、その位置をしっかり覚えさせる。農民たちは互いに石を並べかえて境界線を変え、自分の畑を不法に広げようとするのが常だったからだ。
そして息子にその位置を決して忘れないようにさせるのに、唯一確実だと思われる方法は、その場で徹底的に殴ることだった。ただ石が並べてあるだけの場所よりも、さんざん殴られた場所の方が嫌でも忘れないというわけだ!
ニクラスが唯一、心底気分転換として日々の生活の中で心待ちにしたのはビール造りの日だった。母からパン焼きとビール造りの仕事に駆り出されて時以来、その日が一番好きな日になった。
弟や妹達と違い、すでにしっかり働かされていたニクラスにとって、ビール造りはご褒美のようなものだった。初めはビール造りを見るだけだったが、五年が経過するうちに、母はビール造りの仕事でニクラスに任せる部分をどんどん増やしていった。
最近は、弟と一緒に粉ひき小屋から持ち帰った粉を、自分だけで計量させてもらえたし、パン生地を混ぜ、パン焼き窯の火入れも任せてもらえた。しかし今でも一番ワクワクするのは、焼き立てのパンをかまどから取り出すことだ。
ただし、パン生地の成形とビール用ハーブを混ぜ合わせて煮る作業だけは、母は誰にもやらせなかった。ニクラスは、五年もビール造りを手伝ってきた自分は、何もかも母より知っていると自負していた。
任せてもらえれば自分一人でもっとおいしいビールが造れるのに、とニクラスは内心ひそかに思っていた。ビール用のハーブだって、自分ならもっといい配合ができるのに。いつかきっとやらせてもらえる日が来る、と自分を励ます。畑へ連れて行かれる日さえ来なければ。あと一年で家事手伝いは終わる。そうなればもちろんビール造りもできなくなる。
領主にさせられる使役もあるし、仕事は大変だ。肥料を畑にまき、羊小屋を建て、水車の池を清掃し、柵を造り、羊を洗って毛を刈り、畑を耕す。他にもまだまだある。
さらに自分の庭や、傾いた家や、所有する小さな畑の面倒も見なければならないる。ニクラス達の傾いた家の前にある。
秋が終わる頃、領主から木材を支給され、それを使って家や柵を修理し、寒い冬に備える。残った木材は薪として貯蔵する。そんなわけでやることは一年中あった。
弟のマティアスは、三年前から母と一緒にちっぽけな菜園の世話をしていた。そこで鶏二羽と豚一頭を飼っており、家族の食べ残し、くるみやドングリを与えて育てていた。
マティアスも、そのうち畑に出すので、父のミヒャエルは、八歳になるエリーザベートに、翌年からニクラスに代わってビール造りをさせることに決め、いずれパン焼きとビール造りを母から肩代わりさせようと考えた。これらはいずれにしろ女性たちの役目であった。男にはまっとうな仕事がある。
ビール造りに男が口を出すのは、できたビールがまずいか酸っぱい時ぐらい。しかもそんな時は決まって怒りを爆発させるのだ。
ニクラスがビール造りを手伝えたのは、母が体が弱かったからに尽きる。最初は他の子供たちや弟までもが、女の仕事をさせられているといってはニクラスをからかった。しかし、ビール造りが楽しくなればなるほど、そんな冷やかしも気にならなくなった。
長男であるニクラスは、いつか父の仕事を全面的に引き継がねばならない。それはあらかじめ決まっていることだった。なんとかそれを回避したいとひそかに願ったが、望みはうすかった。なにしろ家でビールを造る男なんていなかったし、これからも現れないだろう。そんな男がいるなら母か父がとっくの昔に教えてくれたはずだ。
※原稿は作業中のものになります。完成版とは異なります。