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ビール醸造を極めた男の数奇な人生を描いた
ドイツのミステリー小説
『ビールの魔術師』(原題:Der Bierzauberer)を翻訳出版したい!

一部先読み原稿を公開!(第三弾)

こんにちは、サウザンブックスです。
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先読み原稿の第三弾を公開致します。
プロジェクト最後まで、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

先読み原稿第一弾

先読み原稿第二弾
 


第一部 ビール造りは女たちの仕事

一章

 

 背中をぴしゃっと叩かれ、激しい痛みが走った。ニクラスは、かすかな叫び声をあげ、すぐに目を覚ました。ベッドと呼ぶにはあまりにも粗末な寝床で寝返りを打つと上を見上げた。父が威嚇するように立ちはだかっていた。幅広の肩、畑の重労働になれた大きな両手、こん棒のような脚、そんな父が目の前に立っていた。太い眉毛と肉付きのよい鼻をした角ばった顔で、息子を咎めるような表情で見ていた。
 「小僧、さっさと起きろ。それとも母さんの手伝いはしたくないってか?」
 低い大きな声が部屋中に響いた。
 そこでハッとした。(今日はビール造りの日だった、一週間で一番大事な日だ!)
 「もちろん起きるよ、父さん」小さな声で答えると、藁の布団から体を起こした。朝の新鮮な香りに家畜小屋の臭いが混じっている。ニクラスはこの混合した朝の空気が好きだった。特に今日は。父の厳しい態度に別段怒りは感じなかった。父さんはいつもこうなんだ、悪気があるわけじゃない。
 父は部屋を出て行き、日課の仕事へ取りかかった。畑で十五時間に及ぶきつい仕事。空が白んできた。ニクラスは台所へ行った。入るやいなやパンの香りが漂ってきた。炒った甘い麦芽の香りが鼻をついた。
 母は背中を向けてごつごつした大きな木の食卓の前に立っていた。こげ茶色の髪を後ろにまとめ、その上に頭巾を被っていた。近づいても、頭巾の隙間から出ている鼻しか見えない。母が振り向いてはじめてやせこけた顔が見えた。
「おはよう、母さん!」
母はにっこりほほ笑んだ。
「あら、起きたのね、いいわ、じゃあ始めましょうか」
 母はとっくに仕事に取りかかっていた。いつもみんなより一時間は早く起きる。
 起きる順番はいつも同じ。まず母、次に父、それから長男のニクラス。下の兄弟たちは父が畑仕事に出るまで寝かされた。朝からぎゃあぎゃあ騒がれるのと父はすぐにいらだつ。朝っぱらから殴られてたくはない。
 今日はビール造りだけでなくパンを焼く日でもあった。ただパン焼きはありふれていて、取り立てて言うまでもない。
 ニクラスは、母が用意してくれた大麦の牛乳粥を一杯すばやくかき込んだ。前日、ニクラスはふたつ違いの弟マティアスと粉ひき場へ行き、一日中粉をひいた。半シェッフェル(*一)の大麦粉があれば二週間分のビールとパンをつくるには十分だ。
 前回造ったビールはもう悪くなっていた。なのに六日後には聖ミカエルの日(九月二九日)が迫っている。父の聖名祝日(*二)にビールを切らすわけにはいかない。怒り狂うにきまっている。幸いこれまで、切らしたことはなかったが。
 もちろんビール造りでは、失敗することもしばしばあったが、それはそれでよかった。誰がやってもそんなものだからだ。常にビール造りに成功していたら、そういう輩は悪しき者や超自然の存在と繋がっていて、忌避される。だがそれでも、聖ミカエルの日にはちゃんとしたビールがなくては困る。九月の終りには畑仕事もほぼ終わっているから、どうしてもおいしいビールが必要だ。
 母はすでに大きな木桶に水をいっぱいに入れていた。長年使っているせいで桶の色は褪せ、底はもろくなってきている。もうすぐ新しいものが必要になるだろう。
 母とニクラスの二人で粉砕した大麦を一袋桶にあけた。
 ニクラスは木の棒を手に取り桶の中をかきまぜ始めた。これが彼にとってはビール造りの中で一番大変な作業だ。母が真っ赤に燃える窯に薪をくべている間、ニクラスは十一歳なりに全身の力を込めて桶の中をかき回すのだ。
 かきまぜ始めて数分後、母がいつものようにニクラスの仕事ぶりを見にきた。そしてまとまってきた生地をひと固まり取りだし、慣れた手つきで捏ねていく。まずパンを焼き、続いてビールを造るのがいつものやり方だ。最初のパンを窯へ入れると、母はすぐに次の生地を捏ねた。全部でパンが十五個くらいつくれるはずだ。七個は食べ、八個はビール造りに使う。生地が残ったらそれでパンをもう一つ焼き、貧しい人達用に修道院へ納める。ニクラスの家も貧乏だったが、自分たちより貧しい人達に常にいくばくか残した。
 それに修道院長たちは、領内の収穫高を詳しく把握していて、キリスト教徒なら少なくとも収穫高の一割を喜捨するのが当然とみなしていた。
 最初のパンが焼き上がった。外側が真っ黒に焦げたパンを出し、次のパンを入れる。外側がどのくらい焼けていれば真ん中がちょうどよい具合になっているか、母にはちゃんとわかっている。ニクラスはパンの焦げをこそげ落として、ついでに焼き立てのパンを一口かじるが好きだった。
 穀類と水がニクラスの一家の主食だ。幼い兄弟たちには時々牛乳が与えられ、大人たちにはビールがあった。肉類はめったに食べられない。たまにクリスマスに鶏肉にありつけるくらいだ。その代わりかゆやスープはたっぷりあった。大麦、キビ、燕麦などで、たいていは何種類かを混ぜて使う。たまに野菜や根菜が少し入ることも。
 食生活が代わり映えしないせいで、ニクラスはパンとビール造りの日が大好きだった。なんといっても焼き立てのパンが、しかもできあがったその場で食べられるからだ。
 七個目のパンが窯に入る頃には、ニクラスと母はビール用のパン生地八個分を捏ね終えていた。生地が少し余ったのでそれを丸めて小さいパンを作った。ニクラスはすばやく床を掃いて落ちた麦の粒を集め、それを小さいパンにくっつけた。
 母がおこした火の上に湯沸かし用の大鍋をかけると、ニクラスは素早く中に水を注ぎ入れた。ビール用のパンは焦げるまで焼かない。外側が薄茶色になったところで母はさっと窯からパンを取りだす。
 ニクラスがその熱いパンを受け取り、縦に裂いていく。中がまだどろどろで生焼けのパンをニクラスはまた桶に放り込む。まだやわらかい表皮も小さくちぎって入れた。
 焼き立てのパンに初めて触れた時、ニクラスは両手をやけどし、かなり痛い目に遭ったが、その後何度かパン焼きをするうちにすっかり慣れてしまった。
 一時間半も経つころには、八個のビール用パン全てがこうして桶におさまった。母が鍋を火からおろし煮えた湯をどろどろのパンに注いだ。ニクラスがそれをまたかきまぜる。やがて腕の感覚がなくなってきた。
 その間に母はふたたび鍋に水を入れ、薬草をいくつか加えた。何を入れるのか、母は誰にも秘密を明かさなかったが、ニクラスは、それがジュニパー、オークの葉、トネリコの樹皮と葉だと知っていた。
 ニクラスにはほとんどわからなかったが、母はそれらの材料について説明してくれた。
「ジュニパーは利尿作用があって血液をきれいにするのよ。オークの葉っぱは消化をよくする。トネリコは痛風とかリューマチ、婦人病の症状を和らげたり、体の中の悪い粘液を減らしたり、かたくなった脾臓を柔らかくする働きがあるわ」
 どの家にも独自のレシピがある。いずれにせよニクラスの父は『自分の』ビールは常に格別だと褒めていた。レシピは特別な場合には大幅に変えることもある。ビールと、ビールに使われる薬草は、ほぼどんな病気にも薬として使われた。母は鍋に入れた薬草を少し煮立ててから、それを、ビール用のパンに加えた。
 薬草のつんとする渋みのある香りと、パンの甘くかぐわしい香りが混じりあって漂ってきた。
 最後にひと混ぜしたらビール造りの作業は終り。あとはうまくできるよう、幸運を祈るばかりだ。
 昨夜遅く雷が鳴ったが、あれはいい兆候だ。それから母はいつも、ビール桶が冷めたら蓋を閉め、その上にパンをひとつ置く。これは幸運を呼ぶおまじないで、おかげでたいていうまくいった。まずくて酸っぱいビールができてしまうこともあるにはあったが、目立って多くはない。
 だがビールがなぜ、ある時はおいしく、またある時は酸っぱくなってしまうのか、ニクラスにも両親にも皆目見当がつかなかった。
 そしてニクラスはこの時、フランケン地方の貧しい農家の息子である自分が、三十年経つか経たないうちに恐らくは世界中の誰よりもビール醸造に精通し、裕福になることも同様に知る由もなかった。
 聖ミカエルの日のビールは素晴らしいできばえで、母もニクラスもとても誇らしかった。  
 ただ『自分の』ビールに誰よりも満足していたのは父だったが。



(*一) シェッフェル:主に穀物の計量に使われた当時の単位、または測る時に使った升。地域ごとに量が違ったが、30~300リットルの間。

(*二) 聖名祝日(洗礼名の日):キリスト教の聖人をカレンダーの各日に割り当てたもの。ドイツなどでは自分の誕生日の守護聖人から洗礼名もらう習慣がある。


※原稿は作業中のものになります。完成版とは異なります。

2020/06/19 11:06