image

突然に奪われた個人の自由
ジョージ・タケイが描く日系人強制収容所の暮らし
絵本『MY LOST FREEDOM』を翻訳出版したい!

ジョージ・タケイさんインタビュー(下)

こんにちは、サウザンブックスです。先日公開しまた、ジョージ・タケイさんインタビュー(上)(中)に続き、最終編をご案内します。今回は、ご自身のセクシュアリティについて、そして、そこから見える世界についてお話しいただきました。
 
ぜひお目通しいただき、SNS拡散していただけましたら嬉しいです。
クラファン成立まで、どうかご協力のほどをどうぞ宜しくお願いいたします。
 


2つの有刺鉄線のフェンス
代償としての平和活動家から時代が呼んだカミングアウト

 
 「有刺鉄線で囲まれた刑務所(日系人強制収容キャンプ)から釈放されたのは私が8歳半の時だった」とジョージ・タケイは話し始めました。「それから学校に通い始めて、たぶん9歳か10歳で、どういうわけか女の子よりも男の子に惹かれる自分に気づいた」
 人種や外見が違うことで罰せられる経験をした日系アメリカ人の少年は、次に、目に見えない自分の内面、セクシュアリティが違うことでも罰せられる恐れを抱くようになります。しかしそれは、幸か不幸か外見とは違って隠すことができた……。
    
 高校生のとき、彼の憧れはブロンドのクルーカットも爽やかな6歳年上の俳優タブ・ハンターでした。1955年、そのタブ・ハンターがまだ無名だった5年前に「パジャマパーティー」で不品行容疑で逮捕されたことがあるとスキャンダル誌がスッパ抜きました。しかもそのパジャマパーティーは「limp-wristed(手首をヒラヒラさせる連中の)」という形容詞付きで。
 それはホモセクシュアルを暗示する俗語でした。実はこの記事は、同誌がロック・ハドソン(そう、当時すでに大スターだったあのロック・ハドソンです)の同性愛を記事にしようとしていることを知ったエージェントが、その記事を封じるために代わりにタブ・ハンターを人身御供に差し出した結果でした。のちにハンター自身が語っています。「これでもうぼくのキャリアは終わりだと思った。でもありがたいことにちょうど同じ頃、もっと有名で大手の雑誌がぼくとナタリー・ウッドが一緒に写っている写真を大きく表紙にして『今年一番人気の新人スター2人』と謳ってくれた。きっとそれで救われたんだと思う」
 しかしこの一件はジョージ少年をすくみ上がらせました。父親の期待に応えて建築学を学ぼうとカリフォルニア大学バークリー校に入り、それからやはり俳優になりたくてUCLA(同大ロサンゼルス校)の演劇学科に移った彼は、映画会社と契約するためには同性愛を隠さねばならないと決めます。
 「子供の頃の私は本物の有刺鉄線のフェンスの内側にいた。でもクローゼットに閉じ篭もろうと決めた時から、今度は目に見えない有刺鉄線の中に住んだのだ」
     
 ジョージ・タケイのキャリアは1950年代後半から始まります。最初は日本の怪獣映画『ラドン』の英語版吹き替え(1957)、次に『ゴジラの逆襲』の吹き替え(1959)。それがやがて1965年スタートの『スター・トレック』に結び付きます。
 「私は別の仮面、ニセのイメージをまとい、自分のキャリアを守らなければならなかった。当時、ゲイバーにもこっそり通い始めて仲間と打ち解けてはいたが、いつ露見するか、いつ警察がやってくるか、不安だった。中には家族にも拒まれて自ら死を選んだ仲間もいた」
 ゲイであることは当時、「犯罪」であり、「精神異常」であり、神をも恐れぬ「倒錯者」であることでした。時代そのものが大きな刑務所だったのです。
 「でももちろんその頃でも、仕事やキャリアを犠牲にした勇敢で大胆な活動家もいた。1969年にストーンウォールの暴動が起き、LGBTQの人々の平等を訴える人たちがいた。自分自身であるということだけで犯罪者のように扱われる。それはフェアでも正義でもない。それは確かだった」
 彼のその社会性は、別の方向に向かいます。アジア系アメリカ人のコミュニティのためだけでなく、彼はジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドらハリウッドの友人たちとベトナム平和運動やアフリカ系アメリカ人の公民権運動に参加し、「平和と正義のためのエンターテインメント業界(Entertainment Industry for Peace and Justice)」という運動体を組織します。
 彼自身の言葉を借りると、「私にとって最も個人的な問題を除いて、私は、それら他のすべての問題での活動家だった」
     
 しかし、やがて時代が彼の背中を押します。「犠牲を払った他の人々の活動のおかげで、物事が起こり始めた」──自分の中の有刺鉄線のフェンスから出ていくのは、彼の必然でした。
 2003年、マサチューセッツ州の最高裁が米国で初めて同性婚を認めました。その2年後、カリフォルニア州では裁判所ではなく州議会が上院下院とも同性婚法案を可決しました。必要なのはあと1つ、その法案に州知事が署名して発効させることでした。
 カリフォルニア州知事は当時、共和党から立候補したアーノルド・シュワルツェネッガーでした。選挙の際、彼は「私はハリウッド出身で、ゲイやレズビアンと仕事をしたことがある。私の友人にもそういう人がいる」と宣伝し、LGBTQの平等を支持すると宣伝してリベラル層からも多くの票を獲得しました。けれどその同性婚法の成立署名を、彼は拒否したのです。
 「アーノルドは右翼共和党員だった。法案拒否で、私は本当に怒った。もういいやと思って決心したんだ。すでに私は十分にキャリアを積んでいたし、全てを危険にさらしてもカミングアウトして、この問題でも活動家になろうと決めたんだよ」
 シュワルツェネッガーは偽善者でした。彼は同性愛者たちの正当な関係を否定するくせに、自分は妻を裏切って家政婦と関係を持っていました。彼女との間に子供も生まれているのです。
 2005年、ジョージ・タケイは68歳で公式にカミングアウトし、シュワルツェネッガーの不誠実をシュワルツェネッガー自身に面と向かって批判しました。LGBTQ人権団体「HRC(ヒューマン・ライツ・キャンペーン)」は彼の全米講演ツアーを手配し、彼はついにLGBTQの活動家になりました。
 カリフォルニアは揺れ動きます。2008年、州最高裁が同性婚を認めないのは州憲法違反と判決し、シュワルツェネッガーも知事としてそれに従うと表明したのに、同じ年の州民投票で再び同性婚禁止提案が可決されたり、2010年にはその提案自体が違憲で無効と判決されたり、結局、同州で同性婚が再容認されるのは2013年6月のことでした。
     
 「日本ではどういう状況なのか?」とジョージに質問されました。現時点での同性婚訴訟の経緯を一通り説明すると、「社会に対して、LGBTQの人たちの具体的な困難を話し続けることだよ」と応援メッセージをくれました。「日本ではセクシュアリティは隠すべきだと考える人も多いと思う。それは個人的なことで、公言することは失礼で恥知らずだと。でも、人生を共にしてきたパートナーのことを話すことだ。日系人収容所の話もそうだが、若い人はそういうつらい歴史を知らない。LGBTQのことも同じだ。かつて人生を犠牲にしても戦っていた人たちがいる。今の平等の道筋はそこから生まれた。そのことを若い人たちは知らない。そのギャップを埋めるためにも、私たちは話し続けるんだ」
 最後に、その「話し続ける」営みとして、彼は次に出版する本のことを話しました。
 タイトルは『Rhyme with Takei(タケイと韻を踏めば)』。
 Rhyme with 〜 というのはアメリカの子どもたちの言葉遊びで、「〜」に入る単語と同じライム(韻)を踏む別の言葉をどんどん上げていくゲームです。例えば「タケイ」なら、Day, May, Hey, などが同じ韻になる。
 子どもの頃からそういう言葉遊びをしているから、ラップなどでもアメリカ人は容易にライム(韻)を踏めるし、詩でも歌詞でも同じ韻がよく登場します。
 対して日本語はどちらかというと韻よりも調子に重きを置く言語文化で、俳句の五七五とか、短歌の七五調とか五七調とか、リズムが主体です。
 で、「タケイ」の韻には、「Gay ゲイ」もあります。今年出版されるその本は、彼のゲイネスにまつわる自伝でもあるそうです。
     
 インタビューの終盤、「あなたがそれを翻訳してください」と言われました。その次著の日本語版を出すためにも、まずは今回の絵本『ぼくの失われた自由』のクラウド・ファンディングの成立にご協力ください。(了)北丸雄二
 


俳優タブ・ハンター



ペンギンランダムハウス社のニューヨークのオフィスにて。
パートナーのブラッドタケイさんと一緒に話を伺いました。

 

クラファン成立まで、SNS拡散にどうかご協力をお願いします。

2025/01/15 11:33