『綺譚花物語』翻訳出版プロジェクトを応援くださった皆様、改めてありがとうございます。皆様お一人お一人のお力で、この本を日本語にしてお手元にお届けすることができるようになりました。
このクラウドファンディングはまもなく終了しますが(11月15日まで実施中)、その前にもうひと言だけこの作品についてつけ加えておきたいと思います。
昨日、こういう問い合わせをいただきました。「『綺譚花物語』の主人公たちに男性が絡んでいないかどうか知りたい」と。
『綺譚花物語』の最初の三編は、昭和11年が舞台。
台湾は元々中華的儒教世界であり、非常に男尊女卑の傾向が強い土地でした。日本時代になってからも女児はかなり粗末に扱われることが多く、ごく幼いうちに未来の嫁という名目で他家にやられたり、養女という名目で実際には使用人として売り飛ばされることも珍しくありませんでした。
このため、女学校への進学が可能になる程に勉強させてもらえる環境で育てられ、女学校に通えている英子や詠恩、荷舟は、当時の台湾人少女としては相当に恵まれた環境にいる少女たちだったと言えます。
しかし、だからと言って「その時代の常識」から逃れられる訳ではない。第一話の主人公、女学校の四年生に進級し、今年16歳になって来年卒業する英子の周りでは、彼女の嫁ぎ先探しが本格化しています。
そしてその英子の大叔父の下へは、既に命を落としている少女が、冥婚によって、嫁いでくるのです。
当時の台湾では、女性の供養はその女性の嫁ぎ先で彼女の子供が行うものでした。このため、死んだ女性であってもどこかに嫁がざるを得なかったのです。姉妹がいれば、その女性が、死んだ姉や妹の位牌を連れて嫁ぐこともありました。そして嫁ぎ先で実子を産むことができなければ、夫に妾を持たせて子を産ませ、その子の一人を自分の養い子にすることで、自分の供養を行う子孫を確保しなければならなかった。
だから詠恩は、既に死んでいるにもかかわらず、既に還暦も迎えている英子の大叔父の下へと、その両親によって嫁がされるのです。女学生のうちに死んでしまったかわいそうな愛娘のため、この娘をこの先未来永劫きちんと供養してくれる子孫を確保しなければという、親心によって。
第二話では、卒業後の嫁ぎ先が決まっているのは日本人少女の茉莉の方で、台湾人少女の荷舟は、卒業後も教員資格を取るためにもう一年「補習科」に通うことが決まっています。
そして荷舟は、従弟でありこの物語の語り手でもある少年「あきら」の家に住み込み、あきらの漢学の指導を行なうことで、既に教師としての第一歩を踏み出しています。
一方で茉莉の方は、その美貌ゆえに縁談が引きも切らず、祖父が良縁を選び抜いた結果として、卒業後は台湾を離れ東京に嫁ぐことが決まっていた。
内地(日本)への嫁入りは、台湾で女学校に通う日本人少女たちにとって憧れの的でした。植民地台湾から、宗主国日本の家庭へのお嫁入り。それは選ばれた少女にだけ与えられる「ご褒美」であり、少女たちにとっての「出世」だったのです。
このため、先方から望まれて内地へ、しかも東京へと嫁ぐ茉莉の未来は、クラスの日本人少女から見れば垂涎の的であり、その両親や祖父にとっても、最愛の娘のために心を尽くして選び抜いた最高の花道に他なりませんでした。
第三話。
贅を尽くした林家のお屋敷で繰り広げられるこの物語は、その舞台のきらびやかさと対照的に、この時代を生きる女性の苦悩を最も赤裸々に描き出しています。
この屋敷の現当主である冬玉舎の妾、蘭鶯。彼女もまた実は、英子や荷舟のように女学校に進学し、無限の未来を夢見る資格を手にしていました。
義務教育である公学校で、貧家の出身であるにもかかわらず優秀な成績を修めた蘭鶯は、女学校の入学試験を受け、狭き門を潜り抜けて合格していたのです。
女学校はそもそも日本人少女が通うことを前提としたものであり、日本語ネイティブではない台湾人少女の進学は基本的に想定されていないため、日本人台湾人の共学が始まっても、台湾人生徒の入学枠は非常に小さかった。更に、台湾人の方が人数こそ多いものの、満足に勉強できる環境に暮らしている少女は数が限られていました。
蘭鶯は不利な立場にもかかわらずその勝負に勝ち残り、恐らく学年に一人か二人しかいない台湾人生徒として女学校に入学し、英子や荷舟の「先輩」になるはずだったのです。
にもかかわらず、彼女が思い描いたその未来は、彼女の親の手によってあっさりと投げ捨てられました。
蘭鶯の親は、優秀な頭脳を持った娘が進学し、場合によっては卒業後に留学もして、その才能によって稼ぐ金銭で家を立て直す未来になど、まったく期待していなかった。
公学校を卒業した蘭鶯は、進学の夢を絶たれ林家の屋敷に下働きとして、親の手で売り飛ばされます。そして彼女の対価には、美貌の彼女が成長した暁には冬玉舎の妾として囲われることまでも含まれていました。
蘭鶯の親が、美貌の娘の最善の未来として選んだのは、お妾としての出世だったのです。
12歳で下働きとなり、16歳でお妾となった蘭鶯は、その晩、一人の少女と出会いました。その少女こそ、12歳の雁聲。冬玉舎の一人娘であり、この屋敷の未来の跡取りでした。
蘭鶯が出会ったもう一人の自分。まだ12歳で、翼を奪われていないもう一人の自分。
しかし雁聲もまた女性であり、それゆえに彼女の未来もまた、婿を取って子を産み、家を継がせる、というそこのみに限定されているのです。
翻って最終話である第四話。同性婚が可能になった2020年を舞台とした第四話には、彼女達の未来を愛娘への愛情故に独善的に決めようとする親も、彼女達を規範で縛ろうとする夫や恋人も出てきません。
第四話で二人の未来に立ち塞がるものは、いわば昭和11年の残骸、歴史の名残りの影に過ぎない。それにはもう何の力もない。
そのことに気付いて二人が一歩を踏み出す時、それを阻む「愛」はもうないのです。