とにかくその絵に、線に、色に、描写力に圧倒された。まともな人間は殆ど出てこない。その日暮らしのヤクザな伊達男たち。しかしそのどうしようもない男たちのふとしたやるせなさ、可愛さ、色気(それは倦怠や諦めから生じるものだろう)、煌めきがちょっとした仕草や表情で伝わってくる。BD作家は絵のうまい人が多いけど、この作家は本当にうまい(ダンス・シーンがうまい人は絵がうまい)。単に絵がうまいというより表現力がずば抜けている。そしてカッコいい。帽子を被って口ひげをたくわえた男たち。水タバコを廻しのみつまらない冗談を言い合いブズーキやバグラマを構える格好よさ。音楽が始まるとゆらりと立ち上がり踊り出す男たちの官能(ここでトレヴェニアンの傑作小説『夢果つる街』のギリシア料理店でのシーンを思い出した。あそこに出てくる老人たちは『レベティコ』の主人公たちと同じくらいの世代だと思う)。ギリシアの光。様々に変化していく影。夜明け前のブルー。エーゲ海の水。朝のまぶしい光。タコ。オリーブ・オイル。光。光……。
舞台はアテネ。1936年10月。ある一日の昼から翌朝までの出来事。7月にスペインで市民戦争が勃発し、8月にナチスによるベルリン・オリンピックが開催される。同じ8月メタクサス将軍のクーデターによってギリシアの軍事独裁が始まる。ヨーロッパにファシズムの嵐が吹き始めるなか物語はスタヴロス、バティス、アルテミス、マルコス、そして「犬っころ」と呼ばれる男(この男は最後まで名前を明かされない)の5人のレベティコ・ミュージシャンたちを中心に語られる。1922年に希土戦争の敗北により、占拠していたトルコ西岸イズミルから本国に撤退した百万を超えるギリシア難民たち。彼らが大都市につくったスラムから発生したポピュラー音楽(つまり混血音楽だ)が「レベティコ」だという。
社会の周縁に生きる人々の嘆き、苦しみ、怒り、喜び。麻薬、アルコール、監獄、暴力、非運。社会政策から見捨てられた人々のそれ故にリアルな感情を歌う音楽。ファシストたちが忌み嫌うまつろわぬ者たちのストリート・ミュージック。
水タバコ屋でコロムビアのプロデューサーにレコーディングの話を持ちかけられたマルコスは言う。「この紳士はオレの身体の中にあるものを引っ張り出そうっていうんだ。ヤギの腹をさばくのと一緒さ。二度と元通りにはならねえ」。プロデューサーは言う。これは歴史の必然だ。これまでは音楽は消え去るものだった。しかしこれからは残り、失われないと。マルコスは言う。何も失われていかないことが問題なんだと。しかし歴史はプロデューサーの言う方向に進んでいく。この物語から一カ月程たった頃、ロバート・ジョンソンのデルタ・ブルースとパブロ・カザルスの『無伴奏チェロ組曲』が大西洋を隔てて同じ時期に録音されることになる。
結局「犬っころ」だけが4人とは異なる道を歩む。かつて貧民街で焼けつくような痛みを伴って演奏された音楽は、今や中流らしい市民客のものとなっている。痛みは忘れられ、心地よいものとしてそれらは受け入れられてゆく。でも本当にそうなのか。最後ハシシの常習者が死神に質問するモノローグで物語は終わる。このモノローグは本当に素晴らしい。僕は思いきり気持ちを揺さぶられ、打ちのめされ、涙が出そうになった。この作品は滅多にない傑作だと思う。ぜひとも出版を成立させて様々な人の眼に触れるようになることを願う。翻訳者の原正人さんから原本と翻訳のコピーを渡されてこの世界に入りこんでから、レベティコのリズムとともにならず者のレベテースたちの姿が心から消えない。
豊田徹也(とよだ・てつや)
マンガ家。『アンダーカレント』ほか。原さんに借りたレベティコCD4枚組を毎日聴いています。
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