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自閉症スペクトラム障害の男の子の自立の物語
『Kids Like Us(僕らのような子どもたち・仮)』を翻訳出版したい!

『Kids Like Us(僕らのような子どもたち・仮)』読みどころを少しだけ先出しします!

クラウドファンディングプロジェクト、いよいよ残り一か月となりました。目標まで残り30%台と順調に達成率をあげており、ご支援や拡散にご協力くださっている皆さまには心から感謝しております。

既に冒頭部分は「一部先読み」として活動報告にあげていますが、今回は皆さまからの熱い要望をうけまして、この本の読みどころ部分を少しだけ翻訳してご紹介します。

 

自閉症スペクトラム障害であるマーティンにとっては、知らない人がたくさん集まるパーティの場にいることだけでも負荷がかかることです。そんななかでのマーティンの葛藤と、彼を取り巻く人びとの動きを描いたこの部分は、なかなかに名シーンであると思います。

 

美味しそうなフランス料理の描写とともにお楽しみください。

 


 

5月23日(月)

午後3時30分

 

今日、シモンはぼくに対して怒っていた。ぼくたちは、学校の二階から三階に繋がる二つのオレンジの階段のうちの一つを降りていた。シモンの靴の黒いかかとがぼくの前の段でぴたりと止まるのが目に入った。ぼくは思わず口走ってしまった。

「きみのクラスにいる赤みがかったブロンドの女の子を知っている?」

シモンは立ち止まって、振り返った。

「なんて名前?」シモンは尋ねた。

「名前はジルベルトかもしれない。そうだといいなぁと。」

シモンは首を横に振った。

「他の名前ではなく?」

ぼくは首を横に振った。

シモンは嫌な感じのする声でこう言った。

「聞けよ。オレは今日、父さんのところに行かなくちゃいけない。だから、午後はきみと一緒にいられない。でもきみさえよければ、オレの友達のマドレーヌがきみと一緒にいてくれるそうだ」

「きみのお父さんはどこに住んでいるの?」

「刑務所」

シモンはニヤッと笑って、靴に視線を落とした。

ぼくは真顔でこう言った。

「ぼくの父さんも刑務所にいる」

これは療育センターで教えてもらったやり方の一つだ。相手と共通の経験について話をしてみるのだ。このソーシャルスキルはなかなか使える。寂しい気持ちにもなりにくい。

「ファック・ユー…、このアホ!!冗談に決まっているだろ!」

彼は階段をかけ下りていってしまった。

ぼくはあまりに動転していて、自分がどんな間違いをしたかについて注意を向けている余裕がなかった。心がバラバラに砕けていくような感じがした。座り込んで、頭を膝と膝の間に押し込めて、マエヴァが教えてくれた「回復の姿勢」を取った。そのまま二十回呼吸をした。

ぼくが呼吸を数えていると、次の授業の始業ベルが鳴った。次は歴史の授業だ。階段を見上げるとそこには誰もいなかった。

ぼくはその後の歴史の授業には出席せず、家までひたすら歩いて帰った。

 

 

午後11時30分

 

「学校はどうだった?」

母さんが穏やかな口調で聞いてきた。今夜はラ・プールというレストランで食事をしている。

「少しは慣れてきたかしら?」

母さんは、ぼくが授業に集中していれば、コミュニケーションが苦手なのをうまく誤魔化すことができるものだと思っているようだった。それと、ぼくのルックスゆえに、他の生徒たちに受け入れられやすくなるはずだと信じている。

今週はうまくいかなかったな…、とぼくは母さんに言ってしまった。

「もう二、三日頑張ってごらんなさいよ。それでもダメだったら、もう学校には行かなくていいわ。でも地元の子どもたちと仲良くするのはすごく良い経験になると思うわ。あなたはこんなにフランス語が上手に話せるわけだし。こんな素晴らしいチャンス、普通ならなかなかないわよ」

映画のキャストやクルーが大勢腰かけている細長い机で、母さんはぼくの向かい側に座っていた。赤と白のチェックのテーブルクロスがかけられていて、その上にはキャンドルの入ったガラス瓶、鶏肉や牛肉が盛り付けられたお皿、赤ワイン入りのピッチャーがある。天井は低く、厚い壁にはめ込まれた三枚の窓からは照明が入り込み、前の壁に下がっている四つの銅のフライパンを照らしている。その下にはタルト・タタンのケーキが並べられている。リンゴではなくアプリコットのタルト・タタンだ。

誰かがぼくにリエットを持ってきてくれた。ぼくの大好物のパテだ。

 

Oui, s'il vous plaît, je voudrais des rillettes.(頂きます。ぼくはリエットが食べたいです)

Vous parlez français ?(フランス語が話せるの?)”

女性の声だ。

Oui(はい)”

 

彼女はリエットが好きか尋ねてきたので、ぼくはもう一度「はい」と答えた。

彼女はぼくがどうやってフランス語を習得したのか、知りたがった。

「父さんが教えてくれました」

「違うでしょ!」母さんがぼくの答えを遮るように言った。

「あなたが自分で勉強して話せるようになったのよね、そうよね?」

母さんは何に関しても父さんのお陰ということにはしたくないようだった。

エリザベスがぼくの隣に座っている。周りには初めて見るたくさんの顔がぼんやりとかすんでいたので、ぼくはエリザベスのはっきりとした横顔に注意を向けるようにしていた。先端がツンと上を向いた小さな鼻。眉毛は丸みを帯びていて、キャンドルの光に照らされると赤みがかった金色に見える。目の色は明るい。髪の毛はゆるく束ねている。ぼくの方から見ると、顎に小さなホクロが二つある。実はぼくから見えない場所にもう一つホクロがある。

エリザベスの向かい側に茶色のあごひげを生やした男が座っていて、エリザベスはこの男に、いつもより甲高い声で早口でまくしたてている。話しているときも、エリザベスの顔の各部分はいつも通りはっきり見える。男の方は、何かしらのデザインの黒いTシャツを着ていて、その上にはあごひげがのっている。

あごひげ男は立ち上がり、すぐ戻るよ、と言った。

するとエリザベスはぼくのほうを向いた。おかげで、輝く両目と両眉、そして可愛らしい顔の真ん中でV字になった髪の生え際を見ることができた。それだけじゃない。ぼくは彼女の鎖骨と、胸の谷間まで見ることができた。彼女は白い綿のシャツの第四ボタンまで開けていた。

「ねえ、アーサーのことどう思う?」

「アーサーというのは、薄茶とこげ茶の毛が混じりあった、あの毛深い男のこと?」

「彼のあごひげが嫌いなの?」

「分からない。でも、今までに見たことがない。柔らかそうだなという印象を持ったよ。」

これを聞いてエリザベスは吹き出した。

「彼は素敵な人よ。母さんの映画のアートディレクターなの。とても賢い人だわ。フランス語も話せるのよ。あなたみたいでしょ。ねえ、話しかけてみなさいよ」

あまり気乗りしないアイデアだ。ぼくはエリザベスに自分で話しかけるように言った。そして、どんな話をしたのか後で教えて欲しい、と頼んだ。

分かったわ、とエリザベス言った。

その後すぐにアーサーというその毛深いアートディレクターはぼくたちのほうに戻ってきた。エリザベスはすぐに甲高い声で自己紹介を始めた。

そこにアスパラガスのビネグレットソースがけが運ばれてきた。ぼくの皿にも五本のアスパラガスがのせられた。ぼくは全神経をそれに集中しようとした。うん、美味しい。アスパラガスを味わっていると、うるさい会話が聞こえなくなる。

「アスパラガスもう少しください?」

注文ではなく質問に聞こえるように、ぼくは語尾を上にあげた。向かいに座っている母さんの口が動くのがはっきりと分かった。母さんは質問をきちんとした文章にして、それをぼくに繰り返させて学ばせようとしているのだ。母さんがぼくにお手本として作った文章はこれだ。

「ぼくに、アスパラガスをもう少しよそっていただけますか?」

母さんは、テーブルに沢山知らない人がいる中で、ぼくが「ぼく= I」と「あなた= you」の代名詞を間違えないようにと気にしている。間違って、「あなたはアスパラガスをもう少し欲しいですか?」などと言ってしまわないように。

母さんはみんなの前でおおごとにしたくないため、ぼくにこっそりと教えようとする。最初の二単語「ぼくに…アスパラガスを」だけ言うと、母さんは口をぎゅっと閉じて頬骨を突き出した固い笑顔を作った。母さんにとって、ぼくが普通に振る舞うことはものすごく大切なことなのだ。だから、なんとしてもぼくに普通に振る舞って欲しいらしい。こういうのを「投影」と言う。

レイラは言っていた。定型発達の人たちは、ぼくらにやたらと投影をするものだと。ぼくらが定型発達の人たちのようになりさえすれば、幸せになれると思っている。あの人たちは分かっていない。ぼくらはぼくらとして生きることしかできないということを。目の色、男女、人間であるということまでも、別のものに取り換えることができないように。ぼくらにとって変えられるものではないから、変えようとさせるのはやめて欲しいとレイラは言っていた。ぼく自身の意見はまだうまくまとまっていない。けれども少なくとも一日一回 はレイラと同じように考えることがある。

誰かがぼくにアスパラガスの皿をまわしてくれた。ぼくはそれを受け取り、渡してくれた人の視線から素早く身をかわした。

ぼくは「ありがとう」と皿に向かって礼を言い、アスパラガスを五本だけ取った。というのも、『失われた時』に出てくる料理番のフランソワーズから、このアスパラガス料理がどれだけ手間のかかるものなのかを学んでいたからだ。

「メレンゲソース、のせるかい?」

身体の大きい男が尋ねてきた。どこかで聞いたことのあるような声だ。母さんが制作した別の映画の中で働いていた人に違いない。向かいにいる母さんの右側に座っている。

少し視線を上げて彼の顔を見ると、束になったひげを生やしている。あのアートディレクターのひげに較べると薄くて細い束だ。他の身体的特徴はよく分からない。母さんに比べれば、肩幅が広くて身体の幅も大きい。シャツの色はダークグレーだ。

母さんの左側には別の男が座っている。彼はもっと顔が丸くて、肌はすべすべして、かなり色白だ。髪には黄色のメッシュ が入っている。ライトブルーとグリーンの色がまだらに入ったシャツを着ている。

ぼくの目の焦点は母さんに合っていて、両隣の二人の男はぼんやりと映っているだけだ。母さんの茶色とグレーの混じり合った髪の毛の織り成す曲線は、まるで彫刻のように映る。目は丸っこくて、上のまつげよりも下のまつげのほうが濃くびっしりと生えている。このあたりの田園風景で見たひまわり畑のひまわりの花びらのようだ。黒いビーズ飾りがついた淡いグレーのドレスを着ている。太めの銀のチェーンのペンダントを二連にしてつけている 。ぼくとエリザベスの赤ちゃんの頃の顔をカメオにしてそれぞれのチェーンにつけてある。母さんの首元のカメオには、ぼくの出生時の記録が書いてある。ぼくはそれをじっと見つめた。どうやら父さんが母さんへのプレゼントにと、誰かに作らせたものであるらしい。そのときには母さんはぼくに何か問題があるなんて思ってもみなかったはずだ。だからこのペンダントは母さんにとって思い出深いものなのだ。

母さんの日焼けした肌の上のペンダントをじっと見つめていると、右側から男の声が聞こえた。しつこく同じ質問を繰り返している。

「おい、メレンゲソースはいるかい?」

sauce mousseline(ソース・ムースリーヌ)です!」

ぼくは叫んだ。その男の顔に視線を向けようとしたができず、彼の後ろの壁で光を放っているポットに視線を向けた。

その男は笑って、料理の本をよく読むのかい、と聞いてきた。

「はい。料理の本は初めから終わりまで全部読みます」

ぼくの好きなレシピは以下の六つだ。クオータークオーツのケーキ、ラタトゥイユ、カスレ、チョコレートムース、羊の脚肉マスタード添え、クスクス。

 

 

2019/08/06 16:27