プロジェクトも残り42日となり、早くも中間地点となりました。現在267名の皆さまにご参加いただき、達成率は間もなく60%に届こうとしています。ご支援および情報の拡散にご協力頂き、ありがとうございます。
さて、今回は『Kids Like Us』の著者Hilary Reyl(ヒラリー・レイル)が作品について語っている動画をご紹介いたします。「ニューロダイバーシティ」という聞きなれない言葉が出てきますが、これは近年「発達障害」という言葉に代わり、急速に普及し始めたアプローチです。これはつまり、すべての脳には違いがあり、その違いは優劣ではない、と捉える考え方です。『Kids Like Us』のマーティンも、作中でたびたびこの「ニューロダイバーシティ」について言及しています。マーティンが「自閉症も同性愛も治すものではない」と母親に対して訴えるシーンは作中の大きな見どころだと思いますが、そこには「ニューロダイバーシティ」のアプローチが少なからず影響を与えています。作者のインタビューから、その部分が垣間見えてきますので、ぜひご覧ください。
インタビューは英語です。日本語要約を下部に掲載しました。
―Kids Like Us のどのような感じで始まりますか?
この物語は、主人公のマーティンがフランスの田園地帯を電車で走り抜けていくシーンから始まります。それまでフランスに行ったことがありませんでしたが、19世紀のフランス文学を愛読していたため、常に頭にフランスの景色を思い描いていました。母親の映画撮影に同行し、フランスの田舎町で二か月を過ごすことになります。これまでスペシャルニーズの子どもたちが通う学校に通っていたマーティンが、初めて地元の「定型発達児」が通う高校に通うことになります。マーティンは車中、自分がそこに馴染むことができるのか、はたまたその経験がどのように自分自身を変えることになるのか、思いを巡らせます。
―Kids Like Us はニューロダイバース(=神経学的に多様)なロマンスであると述べていらっしゃいますが、なぜでしょう。
マーティンはフランス生活初日に、愛読書であるプルーストの『失われた時を求めて』の本の中に出てくる登場人物を思わせるような少女と出逢います。彼はそれが運命的な恋だと感じます。その後、様々な葛藤を通して、彼女が本の中の人ではなく、現実にいる人間であるということを知ることになります。彼女は本の中の人物とは全く違う社会経済的バックグラウンドの持ち主で。やがてマーティンは彼女を受け入れ、彼女もマーティンの驚くべきモノの見え方や思いやりの深さを知ることになります。そして、互いのニューロロジカル(神経学的)な分断を超えて気持ちが通じていくのです。二人のロマンスをかきたてるのは、まさに二人の「違い」なのです。
―マーティンがフランスの古典文学の内容を通して世界を解釈するというアイデアに、どうやってたどり着きましたか?
自身の人生と研究からたどり着きました。自閉症スペクトラム障害の人びとが、自身の経験を整理するために、本、映画、テレビ番組、電車のスケジュールなどからナラティブを使おうとするということに、非常に心惹かれるようになりました。マーティンは、それがプルーストの『失われた時を求めて』の第一編から社会的インタラクションを学びます。『失われた時を求めて』では、記憶、時間、五感の力…本当にありとあらゆることについて書かれています。そして、この本の中に出てくる音楽に夢中になったり、本の中のパッセージを引用したり。皮肉にも、マーティンが現実世界を見事に生きることができるのは、この本に詰め込まれた空想に溢れた生活のおかげなのです。
―Kids Like Us は「共感」の物語だとおっしゃっていますが、それについて詳しく聞かせてください。
私にとって、読んだり書いたりするということは、自分とは異なる人間であるというのがどのようなものであるか、想像するということです。でも必死に想像してもなかなか完全には「共感」はできないものです。ある面では、一種の信仰みたいなものですよね。読んだり書いたりするというのもそれで。その経験のどこか一部に身を置くことはできるわけです。これは本の中でマーティンが、自閉症者と同性愛者の類推を行うことで実際にやっています。マーティンはどちらも治す必要のないものだし、この世界での単なるあり方であると言っています。その後、マーティンはこの類推が完璧なものではないということに気づきます。というのも、ニューロダイバーシティ(神経学的多様性)の多くは、単なるアイデンティティの主張というわけではなく、コミュニケーションに関する話だからです。それでもなお、マーティンは同性愛者であるということがどのようなものであるかを想像することによって、自分自身について理解しようとしています。私たちは誰もが、自分の認識において隔たりを感じていて、でもだからといって自閉症当事者の気持ちが分かるかというと、そうとは言えないですよね。でも、想像しようと努力することすらできないということではないと思うのです。私にとっては、「共感」というのは、想像しようとする行為だと思っています。