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自閉症スペクトラム障害の男の子の自立の物語
『Kids Like Us(僕らのような子どもたち・仮)』を翻訳出版したい!

『Kids Like Us(僕らのような子どもたち・仮)』冒頭部分をご紹介します。

ファンドがスタートして2週間以上で、まもなく目標の30%達成と素晴らしいスタートダッシュでした。支援や拡散にご協力くださったみなさま、ありがとうございます。

『Kids Like Us(僕らのような子どもたち・仮)』の翻訳は発起人でもある林 真紀が手がけます。一部先読みとして、本の内容をみなさまに読んでいただけるよう、準備を進めています。本日はその一部分をご紹介します。

マーティンの一人称で始まる物語(冒頭では自分のことを「きみ」と言っていますが…)は、自閉症の男の子が感じている世界を生き生きと映し出しています。

続きはまた後ほど、楽しみにお待ちください!

 


5月17日 火曜日

午後4時35分 

 

きみと母さんとエリザベスは、昨日パリに到着した。きみにとっては初めての場所だ。

今日、きみはフランスの田園地帯を走り抜けていく。きみの名前はマーティン、16歳の少年だ。列車はパリのモンパルナス駅から1時間2分ほどのロワール地方の町に向かっている。その町は古い城がたくさんあることで有名だ。例えば、アンボワーズ城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城、シノン城、ランジェ城、ヴィランドリー城など。

きみが向かっているのは、サン・ピエール・デ・コールという町だ。サン・ピエール・デ・コールに到着したら、各駅停車に乗り換える。そしてそこから4つ目の駅が目的地のシュノンソーだ。シュノンソーには、数ある中で最も美しい城がある。同じ「シュノンソー」でも、町の名前(Chenonceaux)には「x」がついていて、城の名前(Chenonceau)には「x」がついていない。つまり、この二つは別物であるということだ。

二つ目の列車に乗車し、サン・ピエール・デ・コールからシュノンソーまでは所要時間は21分。そして、きみと母さんとエリザベスの座席番号はそれぞれ、47、48、49番。47番と48番は横並びで、テーブルをはさんだ向かい側に49番と50番が並んでいる。50番には誰も座っていない。きみは49番に座っていて、エリザベスと母さんと向かい合っている。きみの隣は空席だ。

電車の窓からは見たこともないほどたくさんのひまわりが見える。どのひまわりもみんなそろって太陽のほうを向いている。

きみは緊張して、胸は高鳴っている。フランスで過ごす夏。これはきみにとって別の人間になるチャンスだ。それはきみの本来あるべき姿だ。きみは父さんとずっとフランス語で会話してきたけれども、フランス自体は空想の中の国にすぎなかった。実際に行ってみたら、きみの心は解き放たれるかもしれない。

きみは、きみではない誰かになることを夢見るべきではない。それはきみ自身に対する裏切りだ。マーティン、きみは自分自身を誇りに思わなければいけない。だから、きみは空想を必死に断ち切ろうとしているけれども、なかなかうまくいかないね。

エリザベスは車窓からひまわりを眺めている。母さんはパソコンのキーをパチパチと叩いている。二人とも何も喋らない。母さんもエリザベスも読書しているきみにそっと目をやるが、すぐに車窓やパソコンの画面に目を移すのだった。きみは母さんとエリザベスのことをよく理解しているので、二人の目にきみへの期待が渦巻いていることもちゃんと分かっているのだった。

 

 

5月19日 木曜日

午後6時00分

 

今朝、姉のエリザベスはスカイブルーのスマートカーでリセ(訳者注:フランス語でハイスクール)まで送ってくれた。母さんによると、18歳のエリザベスはまだフランスのレンタカーを運転できないため、母さんの映画製作会社が車を購入しなければならなかったらしい。エリザベスはスマートカーを路肩に駐めて、タバコの煙の匂いのする歩道を歩き、ぼくを学校まで送ってくれた。校門をくぐり、中庭を抜け、ぼくをこの学校に受け入れてくれた校長先生のいる部屋へ向かった。

学校の外壁はコンクリートだったが、床はリノリウムだった。校舎の中には鮮やかなオレンジ色のドアがあって、オレンジ色の金属の階段があった。ひび割れてでこぼこした中庭を抜けて、リノリウムの廊下を歩きながら、ぼくは自分の靴ばかり見ていた。校長室に着いてからも、ぼくはずっと自分の靴を見ていた。ぼくの靴はコンバースのスリッポンだ。友達のレイラがラメ入りのペンで描いてくれた銀色の蛾の絵で飾られている。

ぼくのジーンズから出ているデニムの糸とレイラの描いてくれた靴の上の蛾は、もつれあって一緒くたになっていた。

ぼくのジーンズの裾の折り返し部分は擦り切れていた。ぼくは、このジーンズにすごくこだわりがある。エリザベスが膝のほつれた部分にグレーのコーデュロイで当て布をしてくれていた。ぼくはレイラの描いた銀色の蛾をじっと見つめながら、膝の当て布を手でなで続けていた。

「ようこそ、マーティン」

校長先生がぼくに声をかけた。握手をしようと体を近づけてきたが、目を見て話しなさいとは言わなかった。僕にはそれがとてもありがたかった。ぼくは膝の当て布を触っていた右手を上げ、校長先生と握手をした。そしてすぐに手を膝に戻した。校長先生は「ようこそ」と英語で言った。かなりフランス語訛りのある英語だ。校長先生の訛りは、父さんの英語よりもだいぶきつい。でも全く別物というわけでもなさそうだ。校長先生の声はぼくには馴染みやすいものだ。

エリザベスは丘から町に移動しながら、同じことを4回も繰り返して言った。もう今日は帰りたい、と思ったらいつでも迎えに行くからね、必ずメッセしてね、と。

「必要以上に学校でがんばる必要はないんだからね」

エリザベスは抑えた声で言った。

「マーティンはきっとここでうまくやれるよ」校長先生は言った。父さん以外の男性がフランス語を話しているのは変な感じだ。そして父さんとはこんなに違う声なのに、自分がちゃんと理解できることに驚いた。

校長先生は気楽に構えていた。母さんが言うには、ぼくの彫りの深い顔立ち、礼儀正しい態度、優しいほほえみを見ると、初対面の人はみんな気楽に考えてしまうのだそうだ。仮に僕のその優しいほほえみが床に向けられていたとしても…、それが何かそんなにまずいことなのかな?とみんな思うのだ。ぼくの身長はもう180cmあって、声変わりもしている。でも母さんが言うには、ぼくの「妖精のように美しい」容姿のおかげで、みんながぼくを助けたくなってしまうらしい。これはとてもラッキーなことだと母さんは言う。

校長先生は廊下を通って教室までぼくを連れていき、クラスの生徒たちに紹介した。教室の中は、目と鼻と歯がごちゃまぜになっていた。息が詰まりそうだった。ぼくの視線はあちこちさまよい、足元を見たり、ポスターを見たり、窓のブラインドを見たり、机の上の傷を見たりした。自分がそれらに飲み込まれてしまいそうな感覚があって、ぼくは何かにつかまっていたかった。そんなものはどこにもなかったのだけれども。

教室の前に立ったとき、ぼくは固まってしまった。視界に飛び込んできたものに体全体が金縛りにあったようになり、動けなくなった。彼女は後ろから二番目の席に座っていた。けれども、彼女の姿がぼくの目に飛び込んできたかのようだった。他の人にも彼女の姿がそんな風に見えているのだろうか。

彼女はあの『失われた時を求めて』の中で、主人公のマルセルが「フィエットゥ(少女)」と呼んでいた人だ。赤みがかったブロンドの髪色をしていて、顔にはそばかすがある。

彼女は教室でペンを高々と掲げていて、まるで何かを主張しているかのようだった。ぼくは彼女のブルーの瞳の虜になってしまった。『失われた時』の中では、ブルーの瞳ではなかったのだが。ぼくは彼女のすべてに触れてみたい衝動に駆られたが、身体を動かすことができなかった。まるで白昼夢を見ている銅像のようだった。

彼女は笑いをこらえながらぼくのことを見つめていた。他の人たちと違って、彼女はぼくのことをよく分かっているのだ。彼女はぼくのことをからかおうとしている。それはぼくが「他の人と違っている」からではなく、からかってもいいぐらい彼女はぼくのことを分かっているからだ。彼女はぼくを知っている、そう感じた。同時にぼくは緊張した。とにかく彼女にぼくのことを印象づけたかったが、ただひたすらジッと見つめることしかできなかった。

彼女の名前はジルベルトだ。ぼくは彼女とは『失われた時』とぼくが呼んでいる本の中で知り合った。ただし、外の世界では別の題名を使っているようだ。『失われた時』は、100年前に書かれたフランスの小説だが、ぼくの現在を書いている小説でもある。ジルベルトと今ここで出会えたということが、何よりの証拠だ。ジルベルトはぼくと同じように現代的な洋服を着ているが、実は互いに別の時代の違う場所からやってきていることをぼくは知っている。ぼくを見つめ返してくれないときも、ジルベルトはペンを使って合図をしてくれている。そうやって、ぼくが彼女にとって特別な存在だということを、こっそり教えてくれているのだ。

「さあ座って」先生が言った。なじみのない声だ。フランス語を話している。しゃがれた女性の声。一番前の列の小さなテーブルのついた木の椅子のことを言っているようだ。外にバスケットコートが見える大きな窓のそばの席だ。

なんとか身体を動かすことができたので、ぼくは先生の指示に従った。ジルベルトに背を向けるのは嫌だった。なぜあのとき言葉を発しなかったのだろう?あんなに美しいジルベルトがいるのだから、振り返って「きみはブスだ!」と叫んでやれば良かった。

彼女を抱きしめて、ぼくのほうに引き寄せたかった。でもぼくは彼女に背を向けて座り、赤や青や緑で書かれたホワイトボードの文字に集中しようとした。胸がドキドキした。身体を揺らすのをやめるよう言われてからというもの、ぼくは自分の身体は揺らさずに椅子をガタガタと揺らすようになった。椅子の脚はガッタンガッタンと音を立てて床に当たった。

「ラシーヌにおける仮定法の使い方には興味がないみたいね」先生の靴がぼくの椅子の前で止まった。黒いぺたんこのパンプスだ。グレーのスカートはふくらはぎの真ん中ぐらいの長さだ。タバコの臭いがする。

「分かりません」ぼくは自分の足元に向かって、はっきりと大きな声で答えた。頭で考える必要もなく、フランス語が口を突いて出てきた。

「ラシーヌを読んだことがないので、よく分かりません。ぼくの一番好きな時制は、条件文です」

「申し訳ないんだけど、ここはアメリカ人の頭の中を学ぶための場所ではありません」

どっと笑い声が起きた。

ぼくはますます激しく椅子を揺らし、後ろの机に後頭部をぶつけて止まった。笑い声の中にジルベルトの声が混ざっていたのを、ぼくは聞き逃さなかった。ジルベルトの声は、他の生徒の声よりも高かった。荒々しくて、生命力溢れる声だ。

ぼくは息を潜めて座り、耳を澄ました。この教室は、ぼくにとっては拷問だったが、それでもここにいられることが嬉しかった。ここにいなかったら、彼女に会えなかっただろうから。だから、今日は頑張って学校に来られて良かったのだ。

実は、ぼくは昨日から学校に行くはずだったのだが、行かなかったのだ。あそこは知らない人ばかりで吐き気がしてしまうと母さんに伝えた。それよりも、ぼくは学校に行かずに、街でブーランジェリー(パン屋)の窓のところに立ってマドレーヌを眺めていたかった。今日はいいけど、明日からはがんばって学校に行きなさいね、と母さんが言った。この小さなフランスの街で6週間も一人でブラブラしているのは、あまり好ましいことではないからだという。

昨日、ぼくは「学校には行けない。吐きそうになる」と言った。すると、母さんは天井を見ながら「分かったわ」と言った。ぼくらの滞在しているコテージの天井はとても低い。白い漆喰で固められていて、梁が見える。母さんは深く息を吸ったり吐いたりした。これは母さんが、イライラが爆発しないように、気持ちをそらすときにする動作だ。しまいに彼女は言った。

「言い方を変えるわ。今日学校に行きたい?それとも明日行きたい?」

ぼくはこう答えるしかなかった。「明日…。『きみ』は明日学校に行きたい。じゃなくてえっと、『ぼく』は、明日行きたい。」「『あなた』は、明日行きたいのね?」「うん、明日行きたい。今日じゃなく。今日はパン屋に行く」「分かったわ」母さんは言った。

 

2019/06/28 16:47