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名作『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』の後日譚
1996年発行未翻訳作品『ウォーターシップ・ダウンのものがたり』
を翻訳出版したい!

ウォーターシップ・ダウンへの道(後編)

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 娘たちに、新天地をめざすアナウサギの物語を語り聞かせた頃、作者リチャード・アダムズは住宅・地方自治省(環境省の前身)の次官補という上級職にありました。彼の職歴については英語圏でも時折、農務省勤務と取り違えられ、仕事を通してウサギの生態について詳しくなったのだと誤解されることがあります。実際には、ウォーターシップ・ダウンが位置するバークシャーの丘陵地帯で過ごした少年時代の記憶を下敷きにしていて、娘の勧めで小説としてリライトする段になって初めて、アナウサギの生態についてのちゃんとした知識を得ようと、英国の博物学者ロナルド・ロックリーの『ウサギの私生活 The Private Life of the Rabbit』を読みこんだということです。
 なお、『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』において、アダムズは新天地を目指すウサギたちのグループを、「個々は異なるが、相互に依存し合っている」一団として描きました。アダムズの自叙伝『過ぎ去りし日  The Day Gone by』によれば、この作劇には彼がかつて所属していた英陸軍の部隊が反映されているのだそうです。
 第二次世界大戦中、英陸軍に徴兵された彼は、1943年から英リンカンシャーに司令部を置く第1空挺師団に赴任し、第250軽中隊に配属されました。1944年9月の、有名なマーケット・ガーデン作戦(※)にも参加していた部隊です。
 うさぎたち一羽一羽が、必ずしも特定の士官に対応しているわけではないということですが、アダムズによれば思慮深く穏やかな長うさぎであるヘイズルについては中隊長のジョン・ギフォード少佐が、こと戦いにおいては誰よりも頼りになる力自慢のビグウィグは同僚のパディ・カヴァナー大尉が、それぞれモデルとなりました。ちなみに、うさぎたちの斥候役をつとめたカモメのキハールは、どうやら彼らの部隊が運用していたグライダーがモチーフになったようです。
 世代はずれていますが、同じく世界大戦に軍人として参加し、戦場での生々しい経験がある程度作品に反映されているという点は、英国のファンタジー作家として並び称されることのあるJ・R・R・トールキーン(第一次世界大戦の西部戦線に従軍)と同じですね。戦争の悲惨さなどを訴える教訓的な寓話として小説を書いたわけではないと主張しているところも、両者は共通しています。
 また、『ウォーターシップ・ダウン』シリーズの特徴として、ウサギ語(ラピーヌ、フランス語で雌うさぎ)があります。アナウサギたちはこの言語で話していて、ファイバー(五番目)、ビグウィグ(大かつら)などの名前は、それぞれウサギ語の"フライルー"、"スライリ"の英語訳です。
『ウォーターシップ・ダウンのものがたり』は初版刊行時から、『うさぎたち』の方も最近の版では巻末にウサギ語の用語集(グロッサリー)が載っていて(評論社の日本語訳には収録されていないようです)、作中で使用されている語彙の大部分が紹介されてはいます。ただし、作者自身はより多くの語彙や文法を考案していたらしいことが、作中の注釈や用語集の端々から窺えます。
 また、ウサギ語とは別に、作中世界には「非常に簡単で、語数の限られた共通語」が存在し、森林や生け垣(ヘッジロウ)の動物たちの間で使用されていることになっています。これは生け垣方言(hedgerow patois、既訳では“生け垣共通語”)とも呼ばれます。
 アナウサギたちは基本的に、自分たち以外の生物を侮るか恐れるかして、好んで付き合おうとは考えていません。この態度は、彼らの語り伝える神話・伝説において、アナウサギが千の敵に囲まれて生きる種族とされていることとも関係があるのでしょう。
 その中にあって、群れを率いるヘイズルは、敢えて他の生物を利用しようと話しかけていきます。たとえば、彼はチョウゲンボウに狙われるトガリネズミに逃げ道をを誘導し、恩を感じた相手の同族から、周囲の情報を得ます。
 また、ある時には怪我をして飛べなくなっていたカモメのキハールを助け、怪我が治るまで群れで面倒を見ました。ネズミの時と同じく、これは親切心ばかりではなく、空中からの偵察にカモメを使えないかとの目論見があってのことです。
 歩行(かち)で陸上の旅をするタイプのファンタジーには、しばしばこうした"翼/羽のある助っ人"キャラクターがが登場しますね。『ホビット』のオオワシ、『冒険者たち』のオオミズナギドリたち──この場合は、『ガンバとカワウソ』のキマグレの方が近いですが、皆、印象深いキャラクターでした。
 少し脱線しましたので、ウサギ語の話に戻りましょう──さて、リチャード・アダムズが、いったいどこからウサギたちの独自の言語や、前回少し触れた独自の神話・伝説の発想を得たのかといいますと、彼の作風はもちろん、『うさぎたち』の作劇にも大きな影響を与えた先行作品があるのです。英国の作家・詩人ウォルター・デ・ラ・メアが1910年に発表した『ムルガーのはるかな旅』という幻想譚です(日本では、1952年に劇作家の飯沢匡が『サル王子の冒険』(岩波書店)のタイトルで最初の邦訳を出していますが、飯沢は1954年にこれを日本の子供向けに『ヤン坊ニン坊トン坊』という物語に翻案し、NHKラジオの人気番組となりました)。猿の王族の血をひくというサム、シンブル、ノッドの3兄弟が、亡き母ムッタ・マトゥッタの言いつけに従って、父シーレムの兄が治めるという女神ティッシュナーの峡谷を目指すという物語で、ヘイズルの弟ファイバーが不思議な力を持っているのは、生まれつき魔法の力が備わっているというノッドを意識したものでしょう。また、動物たちが独自の言語や神話体系をもっているのも、『ムルガー』の影響のようです。
 人に歴史あり、物語に背景あり。
 J・R・トールキーンが、英国の妖精譚やヨーロッパの神話伝説のみならず、ジョージ・マクドナルドやウィリアム・モリスといった先行作家たちの幻想譚を下敷きに『ホビット』『指輪物語』などの物語を紡いだように、リチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウン』もまた、さまざまな事物の影響のもとに書かれたのです。
 
※この作戦は連合国側の負け戦に終わり、第1空挺師団はほとんど壊滅に追い込まれました。幸い、落下傘降下ではなく作戦地域に陸路で向かったアダムズはどうにか生還しましたが、ビグウィグのモデルであるカヴァナー大尉はこの戦いで戦死しています。
 

2025/12/26 10:56