自分もゲイでありながら、ゲイを標的にいじめをする主人公のダリオ。マイノリティとしてサバイブするためにこうした行動を取る人はそんなに珍しくはないのかもしれない。では、こうした同じような立場の人や、より弱い立場の人を蹴落とさず、一緒に生き延びるためにはどうしたらいいのだろうか。一般社団法人fair代表理事として、LGBTQ+をはじめとする人権問題について取り組む松岡宗嗣さんに話を聞いた。
TEXT/宇田川しい
笑いにすることでサバイブしていた10代のころ
宇田川 松岡さんには『ぼくを燃やす炎』のクラファンの時にもインタビューさせていただきました。
松岡 『ぼくを燃やす炎』はゲイであることでいじめられていた高校生がサバイブしていく話でしたね。
宇田川 そうです。それで、その時に松岡さん自身がどうやってサバイブしてきたかというお話を聞きました。中高生の頃、同性愛の話が出た時には、笑いにすることでサバイブしていたと。
松岡 そうですね、ゲイという部分で笑いを取るようなキャラを演じていた。そうすることで受け流していました。
宇田川 でも、自分の属性を笑うということが悲しくはなかったんですか。
松岡 自己肯定感は高かったんだと思います。だから笑いにできた。
宇田川 それは幼い頃から。
松岡 いえ、もともとはとてもおとなしくて、断られるのが怖くて友だちを遊びに誘えない子でした。それが小学校4年頃からガラッと変わったんです。学級委員になるような子に。
宇田川 なにがきっかけだったんですか?
松岡 はっきり覚えてはいないんですけど、セクシュアリティを自覚しはじめた頃と重なるなと思うんです。同性の友達に惹かれる自分に気付いて、このことは人に知られちゃいけないようなことだと思った。学校の中の力関係でバランスを取らなきゃと思ったのかもしれません。自分は「普通じゃない」「気持ち悪い存在」だという気持ちを、他の部分で補おうとするというか…。
宇田川 ああ、自分を客観的に見て振る舞いをコントロールするようになった瞬間て、僕も覚えてますよ。それまでの無邪気な子ども時代と決別した時というかね。あれは、自分と社会の軋轢を認識する瞬間ですよね。
歴史を学び視野を広げることの重要性
宇田川 今回の『ぼくの血に流れる氷』は、前作の『ぼくを燃やす炎』で主人公のオスカルをいじめていたダリオの物語なんです。二人はもともと親友で、じつはダリオもゲイなのに自分がゲイであることを隠したいがためにオスカルのことをいじめるんですね。こういうケースって珍しくないと思うんですよ。誰もがダリオになりうる。松岡さんの場合は笑いにして流していたけど、もしかしたらダリオのようになっていたかもしれない。でも、ならなかったのはなぜなんでしょうね。
松岡 それは親の教育方針が大きかったかもしれないと思います。うちの親は、「自分のことを笑いにしてナンボだよ」みたいなことをよく言ってて、誰かを貶めるのではなくて、自分のことで周りを笑わせながら、したたかに生き延びるという考えに繋がったのかもしれません。
宇田川 自己防衛として異性愛者のふりをするだけでなく、同性愛者を攻撃までするというのは自分も同性愛者でありながら同性愛嫌悪を内面化してしまっているでしょう。これは、自分が二級市民であることを甘んじて受け入れようとする、いわゆるアンチLGBTの人たちもそうなんだと思います。なぜアンチLGBTになるのかということも考えさせられる話です。
松岡 私もいわゆる「アクティビズム」に対して偏見や嫌悪感を持っていた時期がありました。「自分たちが普通じゃない、おかしいのに」と差別を内面化して、当事者がいじめられるのは本人の努力不足ではと思ったり、「自分は“弱者”じゃない」と思いたくて、“強者”の側についたり。でも、自分の存在を肯定してくれる人や、社会の側がおかしいんだと教えてくれた人との出会い、それと、自分自身もゲイという部分ではマイノリティでも、シスジェンダーの男性であることで得られている特権性がある、という点について考えるようになったことも、私の場合は大きかったかもと思います。
宇田川 特権性に無自覚だと、自分も強者の側について弱者を叩くことができてしまう。アンチLGBTのほとんどがトランスヘイターなのもうなずけます。松岡さんは、TwitterなんかでアンチLGBTにけっこう粘着されてて……。
松岡 Twitterでは議論しない方針にしているので、結構ミュートしていて見えてないんですよね。
宇田川 なるほどね。まあ、議論にも何もならないですからね。あれはダリオが拗らせて大人になったみたいな人たちなんで、どうにかしようと思ったら、少なくともSNS上ではなく、対面でじっくり向き合わないといけないけど、現実的には無理ですよね。ただ、他の人を蹴落として生きていこうとするか、ともに生きていこうとするかの瀬戸際みたいな若い子もいると思うんですよ。
松岡 自分の場合は愛知から東京に出てきて、Twitterで同世代の当事者と繋がったり、NPOに入ってゲイ以外のさまざまなジェンダーやセクシュアリティの人と出会ったりして、世界が広がったんですよね。そうやって、視野を広げることはたいせつだと思います。
宇田川 ただ、この小説の舞台はスペインの田舎で、封建的な考えが残る土地です。日本でもそういう地方で暮らすゲイは辛いですよね。
松岡 私が東京に出ることができたり、大勢の当事者と繋がれたりした経験も、ある種の特権性は影響していると思います。経済状況や周囲の人間関係に恵まれたこととか、「ラッキー」だった背景にある“たまたま”は、じつは、“たまたま”じゃない。自分の場合は、1年間、大学を休学して、2018年に一般社団法人fairを立ち上げるまでの間に、いろんなLGBTQ+関連の団体にボランティアとして参加したり、多くの方に話を聞く機会があって、社会構造の視点やアクティビズムの歴史など、学びを重ねることが出来ました。それは貴重な体験だったと思います。
宇田川 歴史を学ぶことは大切ですよね。アンチLGBTの人たちはLGBTムーブメントについて思いつきで批判にもならないような罵倒をするんだけど、そういう議論はとっくの昔にされていたりする。やはり無知はだめで、学べる環境があることは特権的とも言えるんだけど、今の時代、ネットで調べることもできるわけで、最低限、ものを調べてみようよという気がします。
今、幸せだから差別されていないわけではない
宇田川 ここ最近、松岡さんは大活躍で、しかも、以前と比べて、拳を振り上げて闘っているという印象がとても強くあります。怒りを隠さなくなったというか。
松岡 マイノリティの生きづらさが政治と直結しているんだということに気づくことができたからかもしれません。「怒り」といっても個人的な怒りではなく、社会に対する憤り、コントーラブルな怒りというイメージが近い気がします。社会的な不正義に対しては怒るべきですし、感情的な部分も大事だと思います。本当につらい状況にいる人は声を上げることも出来ないですし、完全に代弁はできないけれど、自分が声を上げやすい立場にいるのであれば、怒りや声を適切に届けたいと思います。
宇田川 社会的な視点を持つことは重要です。
松岡 本人のせいだという自己責任論に陥らないことですよね。差別というのは社会構造の問題だということを理解することが重要だと思います。
宇田川 今、苦しんでいる子たちにアドバイスはありますか。
松岡 一概に言うことは難しいですが、まず、あなたのせいじゃない、辛かったら全然逃げていいんだということを伝えるようにしています。
宇田川 今と違うところに自分の居場所を探す。居心地のいい場所というのがきっとありますよね。
松岡 普段マイノリティについて「弱者」ではなく「弱い立場に置かれる」という表現を使うようにしているのですが、社会的に差別されているという困難な状況はありつつも、だからといってその人個人が“幸せ”ではないということではないですよね。
宇田川 そこもアンチLGBTが勘違いしてるところです。「自分は今、幸せに生きてるから、別に差別されてないんだ」という。個人の幸福感と社会的な差別はもちろん関係しつつもまた別で、例えば奴隷制度の中で苛酷な扱いを受けていたアフリカ系の人たちだって日々の暮らしの中でささやかな幸せを感じる瞬間があったでしょう。だから、差別されてないとはとても言えないわけで、社会的な視点がないと決定的に物事を見誤るということですね。
松岡 自分の子どもが性的マイノリティであることを受け入れられない親の中には、もしそうだとしたら子どもの人生がたいへんなことになるんじゃないかという不安から、本人を否定してしまうというケースもあると思うんです。LGBTQ+だったら人生が不幸だと。でも、それは違う。私は性的マイノリティに関する社会的な困難について問題提起していますが、だからといって当事者が不幸だということではない。幸せのかたちも多様なんです。
松岡宗嗣(まつおか・そうし)
愛知県名古屋市生まれ。明治大学政治経済学部卒。政策や法制度を中心とした性的マイノリティに関する情報を発信する一般社団法人fair代表理事。ゲイであることをオープンにしながら、HuffPostや現代ビジネス、Yahoo!ニュース等で多様なジェンダー・セクシュアリティに関する記事を執筆。教育機関や企業、自治体等での研修・講演実績多数。著書に『あいつゲイだって - アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)、共著『LGBTとハラスメント』(集英社新書)、『子どもを育てられるなんて思わなかった - LGBTQと「伝統的な家族」のこれから』(山川出版社)など