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フェミニズムの視点からトランス女性の経験をひもとく
金字塔的エッセイ『ホイッピング・ガール』を翻訳出版したい!

ホイッピング・ガールってこんな本!その1「フェミニンであることの評価」遠藤まめた

こんにちは。「ホイッピング・ガール」を日本語で読みたいな、とプロジェクトを呼びかけている遠藤です。たくさんの方のご支援をいただき「目標金額の三分の一」まで達成することができました。日本語で読みたいなーと思いながらまだ申し込んでいない方は、ぜひお早めにどうぞ。
 
さて、今回からは『ホイッピング・ガール』ってどんな本なのか、まだお読みでない方にも雰囲気が伝わるように、この本のユニークなところをご紹介してみます。

1つ目は、フェミニンであることについての評価です。セラーノは、フェミニンであること(マスキュリンであることについても同じですが)を「人工的」とか「パフォーマンス」と却下するのではなく、人にはもともと備わっているある種の傾向が個人にあると認めるべきだと、本書で主張しています。「女っぽいのはやめなさい」と否定されているトランスガールがフェミニンに振る舞うのも、マスキュリンな男の子が存在するのも、社会化による影響がすべてだとすれば説明不可能というわけです。このあたりはセラーノが生物学者であることも、論の立て方の背景にありそうです。
 
男性性も女性性も、社会化による産物であると考えられている場面は多いわけですが、実際のところ男性性については「自然」「好ましいもの」とみなされスルーされがちです。
それに対し、フェミニンであることは、誰かをそそのかせるためとか、わざとらしいとか人工的とか、さまざまな誤解やネガティブな評価をされることがあります。トランス女性がフェミニンであることについて、自然ではないとか、性的な目的があるんだろうとか、だますためだろう、といった偏見があるのは、トランスだからというだけでなく、そもそもフェミニンであることについての社会の評価を反映していることが本書では明らかにされていきます。
 
昨今、日本でも「ジェンダーレス制服」が少し話題になっていますね。女子にスカート制服しかなかったものがズボンも選べるようにになった、というケースに対して、男子もスカートを選べるようにする事例は多くありません。女子がマスキュリンな装いになることが「ジェンダーレス」と呼ばれるのも、マスキュリンであることが自然で、フェミニンであることはそうではないと思われていることの反映かもしれません。
 
ホイッピング・ガール、面白そうだと思った方はぜひ周りの方にも広めていただけると幸いです。クラウドファンディングは4月14日(木)までです!



ホイッピングガール応援チーム代表 遠藤まめた(えんどうまめた)
一般社団法人にじーず代表。「LGBTの子ども・若者が安心して思春期をサバイバルできるつながりを作ること」をミッションにLGBTユースの居場所を広げるための活動をしています
https://24zzz-lgbt.com/

2022/02/09 11:52