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エイズが死に至る病だった1990年代前半、
医療従事者や患者を描いた海外コミックス
『テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語』を翻訳出版したい!

認定NPO法人ぷれいす東京代表の生島 嗣さんから、応援コメントが届きました!

HIV/エイズとともに生きる人たちがありのままに生きられる環境を創り出すことをめざして活動する、認定NPO法人ぷれいす東京。その代表で長きにわたってHIVに関する相談、当事者支援、研究活動をされている生島 嗣さんから応援コメントが届きました。


1994年、以前からHIV陽性者への支援活動を行う人たちが集い、ぷれいす東京は設立された。当時は、抗HIV薬はいくつかあったけれども、短期間で薬剤耐性ができてしまい、HIVの増殖を抑える効果が弱くなったり、重い副作用で中断せざるを得ないということが多々あった。そして、エイズ発症でお別れした人たちも沢山いた。

その頃(1994年~1995年頃)、アメリカでは推定80万人が感染していて、実際に年に4万人を超える患者がなくなっていた。日本の1994年の新規報告(HIV/AIDS)は合計で42人。アメリカは78,560人 が新規に報告され、死亡が40,692人だった。

この状況が大きく変わる。1996年にカナダのバンクーバーで開催された国際エイズ会議で、画期的な治療技術、多剤併用療法(HAART)の成果が発表され、単剤で治療していても数年で薬剤耐性ができ、効かなくなってしまうという課題や、副作用などに苦しんでいた世界中に希望をもたらした。それを開発したのが台湾系アメリカ人、デビット・ホー博士。彼はTIME誌のMan of the Year 1996に選ばれている。

その後、アメリカでは1995-1996年から、死亡者が激減。日本は少し遅れて、1996年くらいから、科学の進歩の恩恵にあずかれるようになった。今では治療が進歩して、早めに気づき治療をすれば、老後を考えられるような時代になった。

本作と同じ時期、1994~2000年には、ぷれいす東京でも差別を恐れて、地元で通院はできないからと、遠方から東京まで治療のためにくる人たちのための宿泊スペースを作ったり、体調が悪くなることを予想して、病院の近所に引っ越して療養している人たちや、定期的に通院する人たちのためにランチサービスを提供していた。このマンガ・プロジェクトのことを知り、当時のことを思い出した。

治療の進歩や制度の改善は、彼らが病気と向き合った日々の積み重ねの上にあることを忘れてはならないと思う。ぜひ、Taiking Turns日本語版でその経験を次の世代の人たちにも知ってほしいと願う。


認定NPO法人ぷれいす東京代表 生島 嗣




ぷれいす東京

2021/01/20 12:53