こんにちは、サウザンブックスPRIDE叢書です。
『The Miseducation of Cameron Post』の日本語版は、現在、翻訳原稿のブラッシュアップと編集作業を進行している状況です。
2020年春以降のお届けとお伝えしておりましたが、500ページ弱の超大作ということもあり、作業にもう少しお時間をいただきたいと思っているところです。また、お届け時期がみえましたら、改めてお知らせ致します。
そして、翻訳家・有澤真庭さんから、ひととおり訳し終えて特にオススメの部分を教えていただきましたので、以下、ご紹介させていただきます!
日本版ができるまで、もうしばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。
「コーリーはキャメロンのこと、知ってるの?」
「わかんない。ときどき、たぶん知ってるかもって」それは、完全には正しくない。正確にはいちど、たったいちど、数学のテスト勉強のためブレットが映画デートをドタキャンしたとき、コーリーとわたしだけで見にいくことにして、わたしはいつもどおりにコーリーとふたりきりだと落ちつかなかったけれど、いちばん奥の席にとなりあって座ったら、そのとき電気が走り、コーリーも同じく電気が走ったように見え──視線をあらぬほうに向け、ふたりが同時にひじかけにうでを置いたとき、コーリーがうでを引いた。「でも、ぜったいに同性愛者じゃない」リンジーにいうのと同時に自分にいいきかせる。
「それならいちばんうまくいったとして、どうなるの?」わたしが答えを返せる前にリンジーがたたみかける。「自分にそうきいてみる必要があるよ。このお膳立てにはとんでもなくやばくなる要素がぜんぶそろってて、いいほうに転がる要素はあんまりない」
わたしはコーリーを見つめていた。それは確かだ。ブレットの肩に頭をのせ、目は閉じ、いまではひなぎくがいくつか髪の毛から落ちている。靴を脱ぎ、わたしたちみんなが脱いでいて、そのためつま先立って踊り、コーリーの完璧な足の裏が黒くなり、でもどちらにしろ床を踏みしめているようには見えなかった。わたしの座る場所からは、そうは見えなかった。まだハイだったため、すごくはっきりした白昼夢を見ることができ、あんなふうにコーリーと踊っているのがわたしで、プロムに来ているふたりはカップルだとみんなが知っていて、紫のドレスを着た女の子ふたり組は、わたしがコーリーにキスしたとき、どんなにスウィートでほほえましいかをささやいている。わたしは自分ひとりの時間を過ごしていると思っていた。観客席の暗がりから、ひたすらコーリーを目で追った。でも、だれかに見張られ現場を押さえられたというときの、ちくちくした感触が首もとにして、ふり返るとジェイミーはもうダンスフロアを見てはおらず、わたしを見ていた。
「なんでそんなに冷静なの?」ふり向いて、わたしを見た。ふたりの顔がすごく、すごく近くなる。「今朝会う前に起きたことはそれだったわけ──ふたりは別れたの? そうなの?」
「二十回もいってるじゃない。別れるもなにも、くっついてない」
「知ってる。でもキャムがキャムをやってるだけだって思ってた」
「意味わかんない」ほんとうはわかっていたし、コーリーは正しい。わたしはジェイミーとの仲について、ずっとあいまいにしてきた。コーリーにまちがった印象を与えた。「ジェイミーとわたしは、ただの友だちでいるほうがいいんだ」といい直す。
コーリーはわたしを見つめ、なにかいおうとしたけれど、いわなかった。わたしたちはジェイミーとグレンダイヴの子がキスをするのを見守り、それからルースが顔をしかめてレイに頭をふってみせるのにふたりして笑った。
「今夜これが起きてよかったのは〈バッキング・ホース〉の日だってことだね」コーリーがわたしのうでをとり、その場から連れだす。「カウボーイをひとり、すぐにみつくろってあげる。ふたりでも。十二人のカウボーイだって」
わたしはすごく、こういいたかった。「カウガールはどう?」いってしまえ、たったいま、いまここで、おもてに出し、そのままコーリーの反応を待て。けれど、もちろんいわなかった。ありえない。
コーリーがふり向いてわたしを見た。色のついた空が背後に広がり、顔がかげになっている。「ここに来て座って」
そうした。できるだけ近くに座る。肩とあしが触れた。コーリーはあしをブランコにのった子どもみたいに前後に揺らしている。しばらく座っていた。あしの揺れがアオリを鳴らすけれど、ときたまだ。
とうとうコーリーがいった。ひとことずつ、間をあける。「これまでずっと何度も、あなたがわたしにキスしようとしてると思うことがあった。きのうのロデオでも」
わたしたちはもう少し待った。アオリが二回鳴る。
「でも、いちどもなかった」
「できないよ」かろうじてことばをしぼりだす。「ぜったいにできない」コーリーのブーツが地面の上で前後に揺れ、かかとのひとつがヤマヨモギの茂みをかすり、しずくを散らした。
「わたしはそういうんじゃないの、キャム。ちがうって知ってるよね」
「わかってる」とわたし。「そうだなんて思ってないよ」
「うん、ちがう」コーリーが大きく息をはいた。「でもおかしいけど、ときどきキャムがわたしにキスしても、とめないだろうって考えてた」
「ああ」とわたしはいった。実際に、「ああ」といった。はっきり、がんとした短いことばで、いうにことかいて、まぬけなことに。
「それがどういう意味かはわからない」
「意味がなくちゃいけない?」
「いけないよ」コーリーがわたしを見た。わたしを見ているのを感じ、でもわたしはコーリーの揺れるあしを見つめつづけた。「意味がないわけがない」
やがて、コーリーがいった。「ここに来て」
来たときと逆にキスしてコーリーの体をたどって戻り、ちいさなキスをもう少し浴びせる。
枕に行きついたとき、コーリーが甘い、静かな声でいった。「ワオ、キャメロン・ポスト」
わたしはにんまりした。もし鏡をかざされたら恥ずかしくなるぐらい思いきり。
けれどそのときコーリーの表情がわずかに変化して、不安そうな面持ちになった。「わたし、どうやるのか……わからない」
「べつにいいよ」
「ううん、やってみたい。ただ経験が、キャムがアイリーンやリンジーとやったみたいには、わたし──」
「アイリーンとわたしは十二歳だったんだよ。キスもろくにしてない。それに、リンジーとはそこまでいってない」
「でもやっぱり、経験にはちがいないよ。リンジーって奔放な子なんじゃないの?」
「あのときはちがう。ぜんぜんこんなじゃなかったし」コーリーの顔に手をのばすとキスを許してくれ、それから離れた。
「こんなだったはずだよ」
「ちがってた」
「どうして」
こんどはわたしが息をふうっとはきだす。「よそうよ、コーリー。もう知ってるくせに」
「ううん、知らない」
つぎのせりふをいうとき、顔を自分の肩に向けてコーリーからはそらした。「それは、最初からずっと、コーリーに恋してたから」
クロウフォード牧師の車が私道にとまっていたけれど、わたしは一秒だって気にとめなかった。ルースのやっている委員会に出るため、ひんぱんにうちを訪ねてくる。自転車を車庫に入れ、ポーチで新聞を拾い、なぜまだだれも拾ってないのかとくに考えもせず、ドアを開けて新聞をなにものっていないテーブルに投げ、すでに階段を三段のぼって部屋に行きかけたとき、ルースが声をかけた。「こっちに来てちょうだい、キャメロン」
「キャミー」ではなく「キャメロン」といったルースの呼びかたが、わたしののどの奥に最初にちいさなねじれをつくった。リビングルームの手前に立ち、ルースとクロウフォード牧師がカウチに座り、レイは大きな安楽椅子に、おばあちゃんの姿はなく、そのときねじれは大きくなり、さらによじれ、またパパとママと同じことが起きた、ただしこんどはおばあちゃんに起きたんだ。そう確信した。
「こちらへ来て、座らないかね?」クロウフォード牧師が立ちあがり、わたしのためにあけた場所を身ぶりで示した。
「おばあちゃんになにがあったの?」わたしは玄関を離れなかった。
「下にいて休んでる」ルースはわたしを見ていなかった。というより少なくとも、あまり長くは見なかった。
「病気で?」
「おばあさんのことじゃないんだ、キャメロン」クロウフォード牧師が数歩やってきて肩に手を置いた。「腰をおろしてもらって、ちょっと話しあいたいことがある」
〝ちょっと話しあいたい〟は、カウンセリング・センター用語だ。いまクロウフォードが使ったような場合、ちょっとどころじゃなくなる。長い話になる。だれかとちょっと話しあったりは決してしないたぐいの話。決して。
リックは手をのばして絵を手もとへすべらせて引きよせ、ふたつなにか書きたし、それからわたしのほうにすべらせた。海面に突きでた氷山のわきに、こう書いてある。「キャメロンの同性に惹かれる障害」。そして、船の上には「家族、友人、社会」。
やっと方向性が見えてきた。
「氷山の一角が、この絵に関してってことだけど、船のひとたちにはすごくこわく映ると思うかい?」リックがたずねた。
「たぶん」まだ目の前の紙を見つめながらいった。
「どういう意味なの、〝たぶん〟とは?」リディアがきいた。「もう少し考えて答えなさい。努力しようとしなければサポートできません」
「じゃあ、そう思います」リディアを見てゆっくりいった。「氷山の頭は、この絵に描かれているように、鋭い角やとんがった部分がたくさんがあって、不安定な状態で船の前にそびえてる」
「そうね。合ってます。そんなにむずかしくないでしょ。とても大きくてとてもおそろしいから、船上のひとたちはみんなそこに注目する。でも真の問題はそこじゃありませんね?」
「まだ絵の話、してますか?」
「関係ありません。船上のひとたちの真の問題は……」間をとって、指で絵をトントンと、「家族、友人、社会」の文字の真上部分をたたき、それから同じ指でわたしを指し、自分の顔に目を向けさせたあとにつづけた。「真の問題は、おそろしい氷山の一角を支える巨大な、隠された部分にあります。海面上の氷は操船でよけられても、下にあるもっと大きな問題にぶつかる。あなたを愛するひとたちの、あなたに対する扱いについても同じ。同性愛の欲望と行為の罪があまりにおそろしくたちはだかるため、そこに意識が固定してしまい、いっぱいいっぱいになっておびえ、ほんとうの、大きな問題、わたしたちが対処しないといけない問題は、水面下に隠れてしまう」
アダムはもうしばらくなにもいわず、それから片うでをわたしの肩に回し、手紙を持った手はわきにたらした。「きみがどういおうが関係ない、その子が以前はしてないとしても、いまはした」
「なにを?」ジェーンがきいた。
「キャムのハートをこわした」
「この子?」ジェーンがアダムから手紙をひったくった。「このクリスチャンのアンドロイドみたいなやつ?」
「そう」わたしが答えた。
「それなら、のりでくっつければもとどおりだ。そいつにこわさせたりするな」手紙を宙でふる、怒りにまかせて。「こんなやつ。冗談じゃないよ、あんたたち。ピンクの便せんガールがなんだっての」
手紙を手に、ジェーンが向きを変えた。生ごみ処理機をかけ、蛇口を上にあげて水をめいっぱい流し、手紙をくべると、一息に飲みこまれる。がさがさっと音をたてて一気に消える。それから処理機をとめ、蛇口を押しさげ、この処置で泥まみれになったかなにかのように両手をズボンでふいた。「よし。もう手紙はなくなった」とジェーン。「その子はキャムが覚えていたい姿でだけ存在する。彼女のことはきっぱり忘れたらいいさ。これっきり。まぬけなオウムみたいに、トーンダウンしたリディアぶしをはくクローンから、手紙なんてこなかった。わかった?」
わたしは少しむっとしたかもしれない。
ジェーンが数歩近寄った。わたしはまだアダムのうでの下にいた。わたしのあごを持ち、ジェーンの顔が目の前に来るようにする。「わかった?」
「こんなこと、どうすれば折りあいがつくっていうの?」 あまりに怒って涙も出ず、かわりにかなきり声になり、とにかくのどの奥が焼けつくようだった。自分のこんな声はきらいだったけれど、わめきつづけた。「つまりさ、まじで、目が覚めたらルームメイトがペニスを血まみれにしていたんだよ? リディアはどんなワークシートを出すわけ? アダムは自分のくそ氷山に書きこんだらいい」わたしはすごく、すごく怒って、これまでの人生でこれほど怒ったことはいちどもなかった。わたしはただことばをまくしたてはじめた。なんだろうが手当たり次第、「あんたたちはここでなにをしてるかすらわかってないんでしょ? ただ行きあたりばったりにでっちあげてそれからこんどみたいなことが起きると答えを知っているふりをするけど実際にはわからなくてそんなのは完璧にくそみせかけ。どうとりつくろえばいいかわからないんでしょ。そういうべきだよ。ぼくたちはしくじったって」みたいなことを。ほかにもいった。自分がなにをいったかもわからないけれど、わめいて怒ってただまくしたてた。
リックは悪態をつくのをやめろとも、そんなくそったれな態度を改めろともいわなかった。そんなことばづかいをリックはしないだろうけれどわたしの態度はまさにそれで、たとえいっていることが真実であっても、でもリックはリディアだったらするだろうやりかたで割って入りも飛びつきもしなかった。そしてそれはたいして意外じゃなかった。リックは冷静さを保つのがうまいからだ。リックがしたのは、そしてわたしがおどろいたのは、泣きだしたことだ。
わたしは肩をすくめた。「そういうのがまるっきり単純なことみたいにいいますね。白か黒かみたいというか」
「白か黒かだと思うがね。ひっかけ問題を出してるんじゃないんだ」忍耐を失いかけているのがわかった。それとも単に、わたしがあまり好きじゃないのかも。男がすごく毛深い耳をしているのに気がついた。そうなると、見ないでいるのがむずかしい。耳の穴からみっしり毛がのぞき、外側にも生えている。
「もしここに住んでみたら、ちがって感じるかもね」彼の耳を見ていると、おさえのきかないくすくす笑いをはじめそうになる、グループ面接のヘレンみたいに。代わりにネクタイに集中した。ノートパッドより暗めの黄色だったが、そんなに差はない。セルリアンブルーのアヤメの模様が一面についている。セルリアン。わたしはいまでもそのことばが好きだった。いいネクタイだ。すごくいい。
「いいネクタイですね」
男は首を曲げて見る。きょう、どのタイを選んだのか忘れたみたいに。たぶん忘れたんだろう。「どうも」と彼。「新品なんだ。妻が選んだ」
「それはすてきですね」すてきだった、ある意味。妻が黄色いネクタイを選んであげるのが、ごく普通に思えた。それがどんな意味であれ。普通。それは、〈約束〉に身を置いていないこと。少なくとも、その意味はある。
おばあちゃんは外に出ていなかった。ナース・ステーションのジュディが個室につないでくれたあと、「もしもし」といったのはおばあちゃんだった。
おばあちゃんと電話で最後に話したのがいつだったか、思い出せない。ママとパパが死ぬ前なのは確かだ。ときどき、週末にビリングスのおばあちゃんに電話した。でもそんなにひんぱんではない。ふだんはおばあちゃんがわたしたちに会いに来るか、わたしたちがおばあちゃんを訪ねた。前に「涙がこみあげてきた」とだれかがいうのをきいたか読んだかしたことがあるけれど、自分がいちどでもそんな感覚を持ったことがあるとは思わない。泣きはじめる前に、泣くかもと感じるようなことはなかった。だがそれも、おばあちゃんが電話に出るまでの話だ。わたしは書類と天然マーカーと郵便切手ののりの、いかにもオフィスらしいにおいのする総務室に立ち、リディアがすぐうしろに控えているのを意識した──番号を打ってくれたあと、電話の内容を、とりあえずはわたしの発言内容を監視するためにうしろに張りつき、それからおばあちゃんの声がミネアポリスの病室からして、でもそれは過去からの声のようでもあった。わたしの過去から、もはやわたしではなくなり二度とは戻らないわたしに向かって、おばあちゃんの声が話しかけている。そうしたらみごと、目からくそったれの涙がこみあげてきた。こみあげるのを感じた。なにもなかったのに、あふれてきて、だからわたしは口を開く前に息を吸わなければならなかった。「わたしだよ、おばあちゃん。キャメロン」
「どうでもいい」顔を向けてエリンをまともに見て、夜のこんな時間に賢明とはいえない大きな声でいった。「どうでもいい。どうでもいいってば。もうやめてよ」
「やめない」エリンがいった。それから体をすり寄せてキスをした。まっ暗のなか、大きく動く必要はなく──顔はすでに近くにあり──それでもやはりだいたんな動き、思いきった行動で、そのためにぎこちなかった。わたしのくちびるを半分はずし、下くちびるをちょっとと、あごの上のへこみに当たった。わたしはすぐにはキスし返さなかった。びっくりしすぎた。ひるんで、わずかに顔をそむける。エリンは手をわたしのほおに置き、彼女の厚い、やわらかな指で、ピンクのベビーローションのにおいがさらに強まり、わたしの顔を自分に向け直し、くちびるをエリンのくちびるへ向け、そしてもういちど。こんどはずっといい。わたしのくちびるをすぐ見つけたせいもあるけれど、予想もしていたから。ふたりはそのキスをたがいにわかちあい、そのままエリンがひざだちの体勢からわたしの上になる。
三人は立ちどまって湖を見た。ほんの数本、上のほうに太い枝を残すのみの、幹だけになった木々が、水のなかから突きでている。地震と洪水で置いてけぼりにされた、ちいさな林だ。
「木の幽霊みたい」ジェーンがいった。
「ガイコツの木だね」とわたし。「木の遺骨だ」
「気味悪いな」アダムがいった。
ジェーンがうなずく。「まさしく」
「ママたちの新聞記事に、似たような写真がのってた」わたしの頭にあったのは、おもに破れたガードレールが占める写真だった。車がつき破ったあと、曲がって湖の上に垂れさがる、まるでしおれたように見える金属。けれど、湖の一部がショットの手前に映り、奇妙な、棒みたいな樹木が生えていた。
「じゃあ、ここがその場所だ」ジェーンがいった。
「わからない。湖じゅうが前は森だったから、こんな木はたくさんあるかも」
「ここであってると思う」とアダム。「ここがその場所だよ」
谷底深くにいるため、もう事実上夜だった。少なくともそう感じた。沈みゆく太陽が高い岸壁の向こうから、もうしわけ程度の明かりを投げかけ、はるか高みの空を照らしているものの、まわりの地面はどんどん暗くなっていく。こんな場所にいると、木にそよぐ風の息を、やすっぽいホラー映画に出てくる幽霊のささやき声にとりちがえてしまいそうで、けれどもなぜかもう、ぜんぜんやすっぽくはないのだ。
©Maniwa Arisawa