親愛なる日本の読者の皆様へ
インドと日本の間には、何世紀にもわたる歴史的関係がある。仏教がインドから日本へ至る前から、ヒンドゥー教徒の商人がインドの物語や芸術を日本に持ち込んでいた。東半球で文明の光がまぶしく輝いていた時代に、印日の古代文明は、何百年にもわたって様々な次元でかかわりあってきたのだ。
日本はおそらく、既存の組織宗教という重荷がない状態で、ブッダを圧倒的に深く理解することのできた数少ない文化のひとつだろう。インドの「ディヤーナ」に由来する「禅」の生き方は、日本の土地において偉大なる大家たちに磨き上げられ、完全なる形へと導かれた。インドと日本はいずれも歴史の荒波に揉まれたが、日本はインドよりもはるかにうまくそれをやり過ごしてきた国でもある。
こういったことを言うのは、読者の皆様へのお世辞のつもりではない。私は日本文化に心から敬服しているのだ。とはいえ、敬服に批判が伴わないわけではない。私は日本に行ったことがなく、日本文化と接するすべはこれまでのところ、映画や演劇、芸術、文学やマンガしかなかった。
そのうえで言うのだが、日本は完全に西洋化してしまったように思う。古くからの日本らしい生き方とのつながりを断ってしまったのではないだろうかと感じる。これにはいい面も、悪い面もあろう。だが、古くからの諸文明にロマンを感じる人間としては、悲しいことだ。
我が国インドは、世界で最も歴史があり、かつ今なお栄えている文明のひとつだ。数千年の昔、我々と同時に歩み始めた姉妹文明たち――たとえばメソポタミア、古代エジプト、ギリシャ、中国――は皆消えてしまったか、もはや同じものとは言えないほどに姿を変えてしまった。だが我々インド人は、西洋化しすぎることなく、その文明の一貫性を保ってきた。かつてのインドは豊かに栄えた国であり、その文明や哲学はきわめて多様であり、高度に発展した言語が何百もあった(インドには1500年以上の歴史を持つ古典語が8つある)。
我が国はまた、度重なる侵攻に見舞われた歴史ももつ。インドの背骨をとうとう砕いたのはイギリスによる植民地支配であった。この植民地化が引き起こした富の流出により、インドは、現在多くの人が思い描くだろう貧困と疲弊にあえぐ国となったのだ。人にあふれ、絶望的なほど貧しく、ごちゃついて汚らしいインドの姿は、西洋のメディアで使い古された定型表現である。また、蛇使いやマハラジャ、ゾウで表象されるエキゾチックな国としても描かれがちだ。
これら全てが確かにインドなのだが、その逆もまた真実である。独立75年を迎えたインドは、世界第5の経済大国かつテクノロジー界の巨人であり、経済成長の度合いも世界最速だ。一方では地球上で最多の貧困者を有し、世界でも有数の汚染度で知られる都市のいくつかを抱え、人口過密や砂埃、汚物といった問題を何年にもわたって解決しあぐねてもいる。だが億万長者の数でいえば、アメリカ合衆国と中国に続いて3位だ。
インドについては、しばしば何を言っても正しく、その逆もまた正しい。インドは均質に対するアンチテーゼなのだ。インド文化の中には、その圧倒的な多様性と歴史においてヨーロッパのそれをはるかに上回る下位文化がいくつもある。この国は無数の文明の融合体であり、その文明の多くは3000~5000年の昔にもさかのぼる歴史を持つのだ。インドにはまた、ありとあらゆる人種が何世紀にもわたって比較的平和に共存している。
たとえば私のふるさとであるコーチ(日本の高知ではなく、インドの南西岸にある街だ)には、4平方キロメートルの土地に37以上の民族が暮らす地区がある。たとえばユダヤ教徒やシリア系キリスト教徒、イエメン系ムスリム〔訳注:イスラーム教徒〕、トルコ系、グジャラート系ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、カシミール系ムスリム、アルメニア系、中華系、エジプト系などの人々だ。彼らは何百年にもわたり、ここで調和を保って暮らしてきた。
寺院や教会、シナゴーグ〔訳注:ユダヤ教の会堂〕などがしばしば同じ敷地内にあり、人々は宗教的祝日を共に祝う。地域内における些細な宗教的・人種的差異によって争いや暴力が広がることも多い世界ではあるが、このような奇跡もまた、何世紀もの間、豊かに存続してきたのだ。
インドの文明が続いてきた理由をひとつ挙げるならば、「ストーリーテリングの力」だろう。インドの二大叙事詩である『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』は、はるか古代の昔から、人々の生のあらゆる側面に影響を与えてきた。多くのヒンドゥー教徒にとっては宗教的テクストでもある『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』だが、これらには「正典」といえるものが一切存在しない。オルタナティブ・バージョンといえるものが複数存在するのだ。
偉大な2つの叙事詩には、きわめて多くの多様な版があり、そのいずれもがどこかのコミュニティに「正典」と見なされている。『ラーマーヤナ』の完全版は300種以上を数え、『ラーマーヤナ』に由来する物語となればもはや数え切れない。『マハーバーラタ』にも1000以上のバージョンがあり、超古代のサンスクリット語のテクストでさえ複数ある。まことに気の遠くなるような多様性だ。
もしかすると、これほどたくさんの多様なテクストやバージョンが存在するからこそ、インド文化は多様性を吸収し、時によっては育むことさえできたのかもしれない。『ラーマーヤナ』内の物語をひとつ取っても、必ず対抗的物語〈カウンター・ストーリー〉が存在する。
そして『マハーバーラタ』となれば、ひとつの物語に複数の対抗的物語が存在するのだ。『マハーバーラタ』の作者である聖仙ヴェーダ・ヴィヤーサ自身、なんと4種の『マハーバーラタ』をそれぞれ異なる視点から書いたという。そのうちひとつは、同じ筋書きではあったが、伝統的に悪役とされるカウラヴァに寄り添うものだった。
インドの伝統的な知識体系においては、異議と議論の重要性が強く語られてきた。インドの宗教に戒律はない。あるのは「ダルシャナ」、世界の見方だけだ。古典ヒンドゥー教における6つの主要ダルシャナのうち、3つは不可知論的または無神論的だ。インドを特徴づける意外性のきわみだが、インドには無数の(一部の信仰においては3億3000万もの)神や女神がいるのに、モクシャ(涅槃もしくは悟り)に至るにあたって神は必要ないのである。
とある議論によれば、この世の全てが神であり、神はどこにでもいるという。これに対し、神などおらず、思考の中の幻想だという対抗言論もある。いずれもヒンドゥー教においては正当なる主張だ。神という概念に関心を持たないこと、神とは我々の中にいると信じること、我々こそ神だと信じること、我々自身の神を作って拝むこと、神を含む全てが無常であり我々の愚かさの映し身だと理解すること、偶像を崇拝すること、動物や鳥や自然の力を崇拝すること、神を粗末に扱うこと、まったくもって物質的な生を送ること――これらはいずれも正当であり、道として受け入れられる。単一の教会、単一のテクスト、唯一の神という概念に慣れている西洋人の多くがインドの宗教に混乱するのは、このためである。
かくして『マハーバーラタ』は、多様な思想家たちが自らの物語や哲学、政治思想を拡散するためのツールとなった。インド社会は多様な思想を受け止めてきたが、同時にカースト差別を普及させもした。何らかのヒエラルキーや差別、カーストといったものはあらゆる社会においてもれなく実践されてきたが、それらがインドほど根深く残った場所は他にないだろう。
世界各地のカースト制はしばしば、暴力や残虐性を用いてヒエラルキーを強制してきた。たとえばアメリカにおいては、力ずくの物理的暴力によって黒人差別が蔓延し、奴隷貿易が栄えた。インドのカースト制は、奴隷貿易ほどの物理的暴力をふるうものではないかもしれないが、かつても今も圧倒的な根深さを見せている。
特権をもつ小集団が大多数の虐げられた人々を抑圧しているというナラティブは、シンプルで覆しやすいものだ。フランス革命やロシア革命のように、虐げられた人々が封建領主に反旗を翻す暴力革命が起これば、システムは覆りうる。
だがインドのカースト制は、いわば多頭のヒュドラだ。インドの宗教と同様、「私たちVSあいつら」「抑圧者VS被抑圧者」「信じる者VS信じざる者」というような単純化された括弧書きには、うまく収まりきらないのである。カーストのピラミッドにおいては、頂点と最底辺を除き、あらゆる層が抑圧者であり、被抑圧者でもある。
有害な労働文化のはびこる現代の企業ヒエラルキーのような仕組みなのだ。成功を収めている商業企業はしばしば、社員に義務感を刷り込むことによって、ヒエラルキーを押しつけていく。社員たちは何を引き換えにしても結果を出すこと、義務を果たす満足感のほかには一切の見返りを求めることなく懸命に働くことを推奨される。何もかもが義務と見なされるがゆえに、経営ヒエラルキーの各階層は、自分の部下たちから最大限の労働成果を搾り取ることもまた自らの義務だと思い込む。これにより事業組織は安定し、収益を得られるが、誰もかれもが苦しむことになる。
カースト制も同じ仕組みだ。鞭や剣を使って抑圧する代わりに、義務という観念を用いて抑圧し差別するのである。アブラハムの宗教〔訳注:ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三宗教を指す〕は信仰の剣を掲げて反抗者や不信仰者を追い、背教者の首を落とせと呼びかけたが、カースト制は、現代企業と同様、義務を果たす限り――つまり生まれたときに割り当てられた階層にとどまる限り――思想や信仰の自由を許すのだ。
『マハーバーラタ』の一部である「バガヴァット・ギーター」は、バラモン教的性質をもつテクストであり、中世ごろに『マハーバーラタ』本編に追加されたものと多くの学者が考えている。だが「ギータ―」は、この100年間で、あらゆるヒンドゥー教徒の聖典となった。「ギータ―」もまた、結果を案じることなく義務を果たせ、という主張を説く。この思想は、中世においてカースト制を強化するために利用されたものだ。この時代以降、神への妄信および儀式やカーストの純度への固執が、議論と異議の古代インド文化に取って代わり、文明としてのインドはその極致から凋落していった。各カーストに固有の寺院、儀式、習慣があるのはこういうわけだ。これらはインドの寛容性や多様性の印でもあるものの、複雑なカーストという機構における歯車としても機能した。自分より上の階層には従順に仕えつつ、下の階層からは得られるもの全てを搾り取るのである。
また、イスラームとヴィクトリア朝キリスト教との交流は、女性に対する見方を変えた。古代から古典ヒンドゥー時代における女性たちは、社会で男性と対等に役割を果たしていたが、中世のイスラーム王朝による征服以降、女性の立場は社会の下層に置かれていった。ヴァルナ制〔訳:この文脈における「ヴァルナ」は身分を指す〕においては、女性は父親のヴァルナにかかわらず、シュードラと見なされた。4階層からなるヴァルナ制の第4階層、すなわち最下層である。ヴァルナ制は、各階層内に多くのカーストが含まれうるため、カースト制とは異なる。とはいえ肝心なのは、インド社会における女性の地位が最下層に落ちたというところである。
問題に対処するにあたり、銃や剣で反乱を起こすのではなく、対抗的物語を語るのがインド式のやり方だ。インドの民俗芸術や儀式は対抗的ストーリーテリングにあふれている。『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の英雄たちは多くの人々に神と見なされ、数え切れぬほどの寺院に祀られている。だがそのぶん、これらの物語の反英雄〈アンチヒーロー〉たちの寺院も存在するのである。インドのサバルタン〔訳注:従属的立場にある個人や社会的集団〕は、こうやって反乱を起こしてきたのだ。
私が『マハーバーラタ』の悪役ドゥルヨーダナ(作中ではスヨーダナ)の視点から対抗的ストーリーテリングを始めたのは、彼が祀られている寺院がきっかけだった。インド全土にはまた、聖典『ラーマーヤナ』の悪役であるラーヴァナのための寺院もある。ダシャラー祭の儀式として、北インドではラーヴァナの人形が燃やされる。だが、この日にラーヴァナを哀悼する敬虔なヒンドゥー教徒のコミュニティもまた存在するのだ。
私は初めての著作『Asura: Tale of the Vanquished』において、『ラーマーヤナ』の物語を悪役ラーヴァナの視点から語り直した。一方、『Ajaya』二部作は5名の登場人物――ドゥルヨーダナ、アシュヴァッターマン、エーカラヴヤ、カルナ、そしてジャラ――の視点から『マハーバーラタ』を語るものである。4名はカウラヴァ側で戦った戦士だが、最後の1人は大いなる者たちの争いに絡め取られてしまった一般人だ。
私は『Asura』においても、バドラという人物を用いて、歴史という戦車の車輪に巻き込まれた普通の人間の無力さを描いている。ジャラは普遍的な人物だ。彼が私の物語に登場するのは、意図したことでもあり、結果として付随してきたことでもある。彼と『Asura』のバドラはいずれも普遍的な人物だ。先の二つの世界大戦に巻き込まれた普通の人間と何ら変わりはない。歴史の流れを変える力など持たない。歴史は巨人たちのものだ。私たちの大多数は、車の行き交う高速道路で必死にうごめくアリである。重要人物たちのトラックや車はそれを見もせず、どことも知らない場所へ風を切って走り去っていく。
あなたが今、手に持っている本は、何年にもわたる懸命の読書、旅行、調査、そして執筆の成果である。だからといって、すごい本だという保証などできはしない。私はそんな主張などしない。ただ、この国の真なる反抗の伝統にのっとったものだとは言える。この国ではしばしば、そういった反乱が何百万という数で同時に爆ぜるのだ。これは反乱として、インド社会に掲げる異議の鏡として、情熱を込めて語られた『マハーバーラタ』の一側面だ。この物語は真正である。『マハーバーラタ』が表現してきた無数の物語、同じ筋書きでありながら徹底的に異なる視点を示してきたいくつもの物語が、いずれも真正であるのと同様に。
『マハーバーラタ』を著したヴェーダ・ヴィヤーサは「知るべき価値のあるものはすべて『マハーバーラタ』の中にあり、『マハーバーラタ』の中にないものは知る価値がない」という大胆不敵な主張をしたが、この言葉が時を経ても否定されていない理由は、まさにここにある。『マハーバーラタ』は、文字通りに訳せば「偉大なるインド〈バーラタ〉」という意味だ。なぜ偉大かといえば、無限の物語を生み出すことができ、そのいずれも新鮮な何かをもたらしてくれるからである。このことが過去数千年にわたって真実たりえてきたのはなぜかといえば、『マハーバーラタ』とは畢竟、生そのものであるからだ。そこに境界はなく、制限もなく、限界もない。この果てなき海から、私はひとつの貝を拾い、あなたに手渡す。それが空っぽの貝殻であるか、真珠を秘めた牡蠣であるかは、読者だけに分かることだ。
日本の読者の皆様に感謝を申し上げる。
アーナンド・ニーラカンタン
作家、インド在住
2024年10月19日
(訳:佐藤まな)
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