序章 ガーンダーラ
激しい雨が降る中、将軍は宮殿に足を踏み入れた。宮殿の中は、規則正しい雨粒の音が鈍く響くほかは、不気味なほどに静かだった。木造の階段の下で将軍は歩みを止めた。彼の足元に、いくつもの小さな水溜まりが奇妙な模様を描いていた。それも妖しい紅色《あかいろ》を帯びて――百合のように白く冷たい大理石の上で、なお紅《あか》く。戦装束を整えた瞬間、目も眩《くら》むような痛みが走るのを感じて、将軍は身をこわばらせた。彼はいくつもの傷を負い、血を流していた。だが丈高く力強い体を、なおしっかりと起こしていた。遠くの雪山から吹く冷たい風が、彼の長く黒い髭《ひげ》を揺らし、数多の氷片のごとくにその身を刺していった。将軍は芯から凍えていた。このあたりの起伏激しい山岳地帯や、雪の積もった道に慣れていないせいだ。彼は東の生まれ、広大なるガンジス平原の息子だった。その右手には、去る一時間に何十人もの戦士を斬り殺してきた、抜き身の剣が握られていた。
数歩離れたところには、彼の部下たちが恭《うやうや》しく立っている。憤怒の勢いで降っていた雨は、いつしか霧雨に変じていた。屋根からしたたり落ちた雨水が側溝に集まり、暗い渦をなしていた。この水はやがて山腹を流れ下り、遠くの砂塵舞う平原を流れる川と合流し、海へと向かう。その流れが今運ぶのは、ほんの数時間前まで山の都ガーンダーラを守っていた、名もなき戦士たちの肉片と血だった。
将軍は微動だにせず立ち、上の階からかすかに聞こえてくる泣き声に眉根を寄せた。どこかで雄鶏が高らかに鳴き、雌鶏がコッコッと喉を鳴らし始めた。砦の外では行商人が売り文句を叫び、牛車が鐘を軽やかに響かせながら通り過ぎていった。将軍は階段を上るべく、慎重に一歩を踏み出したが、再び止まった。何かが視界に入ったのだ。彼は痛みをこらえながら身をかがめ、それを拾い上げた。車輪の壊れた、小さな荷車だった――幼い少年の玩具だ。壊れた車輪のついた側には、乾いた血がべっとりとついていた。ひとつ溜め息をついてから、将軍は階段を上り始めた。階段は彼を拒むように軋んだ。それを聞いたかのように、階上の泣き声は止まった。
長い露台が、先端が影にまぎれて見えないほど遠くまで続いていた。雪が降り始めた。廊下に沿って並ぶ木製の長椅子に白い結晶が落ち、奇妙な染みを残していく。将軍はゆっくりと足を進めた。倒れた兵士たちを踏まぬように。彼は左手に壊れた玩具を持ち、右手にインド産の曲刀を握っていた。彼は雪も、山岳地帯の凍るような寒さも嫌厭《けんえん》していた。故郷の陽光にあふれた平原が恋しかった。ただこの仕事を片付けて、ガンジスの河岸に戻りたかった。将軍はふと足を止め、耳を澄ませた。衣擦れの音だ。室内で誰かが待っているのを彼は感じた。手負いの体に緊張が満ちた。手に握った玩具は今や重荷だった。「なぜ拾ったのだ」――そう彼は自問する。だが今更、捨てたくもなかった。構えた剣先で、半開きの扉をゆっくりと押した。将軍が部屋に入ると、その丈高くたくましい体躯が、薄暗い部屋に暗い影を落とした。暗がりに目が慣れてきたとき、彼は彼女を見とめた――部屋を包む影に半身を隠した姿を。彼女は目を伏せ、膝を両腕で抱いて座っていた。己のさだめを待つことに倦んでいるようにも見えた。戦士の強張った筋肉から、少し力が抜ける。彼は疲れのにじむ溜め息をついた。「神に感謝を。今日はもう血を流さずにすむ」――そう思いながら。
部屋の隅に置かれた油灯が、申し訳程度に鈍い光の円を描いていたが、そのほのかな光輪の外にある暗闇をかえって深くしているだけだった。将軍が油灯の芯を伸ばすと、金色の光が広がり、このうえなく美しい女性の姿を照らし出した。
(私のさだめは、このような美しき神の被造物に、不幸をもたらすことなのだ)
そう思うや、突然に怒りを覚えた。己が父親の色欲を満たすため、衝動的に生涯独身の誓いを立てた日を、彼は呪った。その誓いのせいで、彼と人生が交錯した女性たちは、そのほとんどが不幸になったし、中には人生を台なしにされた者もいた。
(今日もまたひとり、不幸にすることになる)
彼は落胆の中で思い、そして小さく、苦痛に満ちた笑いをこぼした。よりによって彼のような禁欲者が女性を狩り、血を流して回るべしとさだめた運命の皮肉さに。
将軍は暗い思考を押しやり、目の前の美女に丁寧な礼を取った。
「娘よ。我が名はガンガーダッタ・デーヴァヴラタ。ハスティナープラの大摂政である。『ビーシュマ』という二つ名であれば、聞いたこともあろう。そなたに、我が甥にしてハスティナープラの王子ドリタラーシュトラとの結婚を申し入れるため、ここに参った」
続く濃密な沈黙の中、ビーシュマは、燃えさかるような美しい灰色の瞳からずっと目を逸らしていた。こちらを見据える灰色の瞳を、彼は生涯忘れることはなかった。その瞳が世界から隠されていたときでさえも。娘はビーシュマの心を突き刺すような、痛ましい声で咽んだ。それから自らを鎮め、すっくと立って頭《こうべ》を上げ、堂々たる威厳を以て言った。
「ビーシュマ大摂政殿。ガーンダーラの歓迎には、きっとご満足いただけたことでしょう。我が父が直々にご挨拶できぬことを誠に申し訳なく思います。わたくし、ガーンダーラの王女ガーンダーリーが、父に代わってあなたをお迎えいたしますわ」
氷のように冷たい彼女の声に、ビーシュマは立ったまま凍りついた。彼女にすべてを打ち明けたいという奇妙な衝動に駆られた。己が王国のため、行わざるをえなかったことを正当化したいという衝動に。圧倒的な悲劇に襲われながら、これほどの威厳と落ち着きをもって振る舞う若い娘の前では、自らが矮小で卑怯なものに感じられた。まるで畜生のような気持ちだ。先ほどの怒りが戻ってくればよいのにと思った。彼女の細い腰をつかんで抱え上げ、寓話の戦士のごとく、ハスティナープラに駆け戻れるように。だが、そんなことはできなかった。彼は古式ゆかしき戦士。義を重んじる男だったのだ。
「わたくしに選択の余地はないのでございましょう? ハスティナープラの摂政が、甥の花嫁として盗み取る乙女を選定したのならば、偉大なるインド帝国の周縁に住まうわたくしたちに、どんな選択肢が残されているというのです? 動じられる必要などございませぬ……わたくしたちの抵抗もここまでです。ガーンダーラはあなたの狙いどおり、陥落いたしました。わたくしはあなたの捕虜でございます。あなたと共に参り、盲目の甥御殿の花嫁となりましょう」
ビーシュマはいつしか言葉を発せなくなっていた。彼は遠く、雪をかぶった山腹に視線を投げた。今なら、短剣を背中に一刺しするだけで、彼女は自分を殺せるだろう、と思う。だとしても、彼女と向き合って、あの灰色の瞳を見つめ返す気になれなかった。この麗人に刺し殺されるのも、己の無味乾燥な人生の終わらせ方としては良かろう。彼女のような美しい女たちがこの世にいると知りながら、無能ないし不能の甥たちの、あるいは誰であれハスティナープラの玉座に就く愚か者の名代として、そのような女たちを盗んでくることしかできないのに比べれば、ましだと言えた。人生は戦いと裏切り、政治と策謀の連続で、彼はそれに倦《う》んでいた。ひたすらに血を流して他者を――父を、国を、兄弟を、甥たちを守り続け、けれど自分は常に傷つくばかり。もう辟易していた。だがインド全土を見渡したところで、ハスティナープラの摂政に比肩しうる存在は、戦士であれ王であれ王子であれ、一人としていないのだった。
ビーシュマはきびすを返した。ガーンダーリーが自分を刺すことを半ば期待しながら。だが彼女はおとなしく後ろをついてきたので、彼は少なからず落胆した。露台に出るや、氷のような風が不意に吹きつけ、彼は身震いした。振り返ると、ガーンダーリーが彼の手に握られた壊れた玩具を見つめていた。彼は恥ずかしくなり、玩具を投げ捨てるか、彼女の視線から隠したいという衝動に駆られた。そのとき、細い泣き声が耳に入った。背後の佳人が発したのではない。彼女が座って待っていた部屋、その奥の暗がりからだ。泣き声がビーシュマの耳に届いたと気づいた瞬間、ガーンダーリーの顔に恐怖と混じりけのない憎悪が浮かんだ。ビーシュマは足早に部屋へと戻った。ガーンダーリーは彼の腕をつかみ、背中に爪を立てて止めようとした。だがビーシュマは、長年積もり積もった怒りと焦燥をぶつけるがごとく、突如として乱暴に彼女を押しのけ、部屋に入った。ガーンダーリーは倒れたが、すぐに起き上がってビーシュマを追い、その歩みを遅らせようと長い爪で掻き、噛みついた。――だが、すべて無駄だった。
泣き声は寝台の下から聞こえてきた。丈高き戦士は床に膝をついた。鋭い武器が思いがけず顔に向かって繰り出されても防げるよう、剣を構えながら。小さな手が玩具の荷車へと伸び、一瞬でまた引っ込められた。だがビーシュマはその小さな手をすかさずつかみ、強く引いた。幼い少年だった。まだ五歳になるかならないかというところだろう。ビーシュマは彼を明るいところでよく見るため、露台へと運んだ。少年は血まみれだったが、左脚に小さな傷があるのを除けば、怪我はしていなかった。動物のような大きな目が、年端もゆかぬ幼子ながらに渾身の憎しみを以て、頑強な戦士たる王息を見据えていた。こういった時、ビーシュマは己を嫌悪した。戦場で数千の矢と向かい合うことはできる。だが少年の双眸は彼の鎧を貫き、その心臓に深く突き刺さった。彼の師《グル》たちであれば、少年を始末せよと言っただろう。国を征服したならば、男をすべて殺し、女たちを連れ帰るのが堅実なやり方だった。不測の事態や、いずれ復讐の名において戦火が上がることを防げたからだ。小さな心の臓に剣を突き刺せ、と命じる父の声が、ビーシュマには聞こえるようだった。
ゆっくりと、きわめてゆっくりと、ビーシュマは少年を床に下ろした。少年は傷ついた脚で自らを支えられず、すぐに倒れ込んだ。
「これは誰だ?」
ビーシュマはガーンダーリーに問うた。
「ガーンダーラの王子、シャクニにございます。殺しなさるのでしょう。それこそがクシャトリヤの義務《ダルマ》でございましたね? 戦士の行動規範ならば、わたくしもよく存じております。ですが、どうかわたくしの目の前では、ご勘弁を。この子はわたくしの弟にございます……どうかお慈悲を……」
ガーンダーリーはそう懇願した。
ビーシュマは恥に満ちて立ち上がった。つんとしていた王女が取り乱す姿にも、足元で息を切らしている幼子にも、目を向けられなかった。握った剣が震えた。彼はゆっくりと膝をつき、玩具の荷車を少年の近くに置いた。少年はそれをつかみ、胸に押し当てた。ビーシュマは涙があふれるのを感じた。自分の弱さに苛立ちながら、彼は少年を押しやった。シャクニは苦痛の叫び声を上げた。
「殺しはせぬ。そなたがどれほど弟を愛しているか、見れば分かる。ハスティナープラに連れていくがよい。クル族の王子として育つことができようぞ」
ビーシュマは言った。屈服した自分をこのうえなく嫌悪しながら。
弟の命が救われたことに安堵したガーンダーリーは、震える溜め息をついた。ビーシュマは立ち上がり、姉弟を見やった。風がいっそう強くなってきて、寒さに身が震えた。ガーンダーリーは幼子を抱き上げたが、その重さによろめいた。ビーシュマは腕を差し伸べ、シャクニを受け取った。大摂政に抱き上げられたそのとき、少年はあらん限りの憎悪を込めて、その顔に唾を吐いた。ビーシュマは血のまじった唾を手の甲で拭き、花崗岩《かこうがん》のように硬い表情で歩みを進めた。
***
彼らは馬にまたがり、戻っていった。砂塵舞うガンジスの平原へ。永遠の象の都の宮殿へ、インドの名高き首都――ハスティナープラへ。シャクニは偉大なる戦士の鞍《くら》の上に力なく横たわり、ガーンダーラの王女はその後ろで自らの馬を駆っていた。ビーシュマの頭の中は、もう一人の甥、青白きパーンドゥのための花嫁探しでいっぱいだった。そうでもなければ、熟練の戦士たる彼が幼い少年の目に燃える憎悪を見逃すことはなかったろう。クル族の摂政が長く輝かしい人生において犯した最大の過ちであった。
〈本編へ続く〉
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