この本、日本で出したらよさそうじゃない? いまから5年前、『ぼくの血に流れる氷』の前作にあたる『ぼくを燃やす炎』のレジュメを読んだときの直感です。ここで言うレジュメとは、翻訳者が原書の概要を日本語でまとめた書類のこと。翻訳者がレジュメを作成する作業をリーディングと呼んでいます。私は当時、書籍編集者として、スペイン大使館が主催する「ニュー・スパニッシュ・ブックス」というプロジェクトのお手伝いをしていました。刊行されて間もない数百冊のスペイン語の本のなかから、「日本向けおすすめ書籍」を選考するという御役です。選考担当者は数百冊のレジュメを次々と読み、良さそうな本をピックアップしていくのです。結果として2016年の選考で、私がいちばん読んでみたいと思った本が『ぼくを燃やす炎』でした。
リーディングのレジュメを読んだことのある同業者ならわかるはずですが、優れた書籍のそれからは、必ず熱が伝わってくるものです。あらすじの他にも、その本が日本の市場でどう捉えられるかといった視点が盛り込まれるレジュメは、出版社や編集者が邦訳刊行の可能性を検討するうえで、最良のものさしです。リーディング担当者にはニュートラルな立場でレジュメをまとめることが要求されます。とはいえ、いい作品を読んだ。そのときにはどうしたって、作品が邦訳刊行に結びつくよう願ってしまう。それは書物を愛する人間にとっては、ごく自然な想いではないでしょうか。そして、『ぼくを燃やす炎』のレジュメからは、隠しようのない熱が溢れていました。
最近改めて思うのですが、本を出版するという営為において、大切なのはマーケティングデータでもインフルエンス力でもありません。熱です。人を動かしてしまうような熱。それが何よりも大切な要素であり、自分がいままで担当してきた本を振り返ってみても、熱がある本は必ず遠くまで燃え広がっていくものです。作者が自分のなかに秘めていた熱をテクストの上で灯す。火が灯ったテクストを読んだ者に熱が伝播する。熱は読んだ者のなかで加熱し、大きな炎となり、さらなる読者へと燃え広がっていく。個人の正直な感想が他者の心を動かすとき、その熱の強さは、フォロワー数のように数値化できるものではないけれど、ほとんど魔力にちかいエネルギーを秘めています。
『ぼくを燃やす炎』は、ブロガーである作者がLGBT+の少年少女たちと知り合い、彼らの悩みに耳を傾け、その真摯で深刻な体験の数々に衝き動かされて書いた作品です。自分ではない誰かによって書かされた。その作品の成り立ち自体がすでに熱の産物である。そして、熱の産物が日本でもまた、クラウドファンディングという人の熱量をもろに体現する仕組みを使って世に出た。これって、すごくないですか?
次作の『ぼくの血に流れる氷』は、『ぼくを燃やす炎』の主人公をいじめた少年・ダリオの視点で書かれた作品だと聞いています。ダリオは、親友だったオスカルのセクシャリティをアウティングし、絶望の底に突き落とした張本人。しかし、自らもまた自身のセクシャリティに悩みを抱えていたダリオは、オスカルにしてしまったことで深く悩んでもいたというのです。とすれば、『ぼくの血に流れる氷』は、いわば、ヒール役のスピンオフのような物語だということですね。憎まれてしかるべき人物の、描かれなかった一面が見えてくる。そうしたヒールの物語にあるのは、きっと、希望です。大なり小なり、自らが犯してしまった外罰的な行為に後悔したことがある人にとって、『ぼくの血に流れる氷』は救いの物語になるのではないか。そう思っています。
伊皿子りり子
書籍編集者。エッセイやビジネス書を手掛ける。最近の担当書籍に、村井理子著『兄の終い』『全員悪人』、鈴木智彦著『ヤクザときどきピアノ』、五十嵐大著『しくじり家族』、寿木けい『閨と厨』、秋山楓果著『ストーリーで語る』、佐藤友美著『書く仕事がしたい』、近藤康太郎著『三行で撃つ』(以上、すべてCCCメディアハウス)他。