原稿をいただいてから、随分と時間が経ってしまいました。内容に目を通したとき、これは真剣に正対しないと、迂闊な感想など言えないなと感じたからです。それほどまでに、この本には、のりさんのこれまでの思索のすべてが詰まっていると感じました。
読み進めるうちに、のりさんはこれまでの思索の中核をなすテーマを、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉の中に見出されたのだと確信しました。この本を書くということは、単にこの言葉を掘り下げるだけでなく、これまで興味の赴くままに追いかけてきた数々の問いを、ネガティブ・ケイパビリティという糸で編み上げる営みだったのではないでしょうか。まるで、出来上がった壮大なタペストリーを見せていただいたような気持ちです。
ネガティブ・ケイパビリティとは、耐える力のことではない。さらに言うならば、「不確実な状況にとどまり続けること」ですらない。のりさんの言葉に深く耳を傾けると、そのように響いてきました。なぜなら、ネガティブ・ケイパビリティの本質は Doing(有)の中にあるのではなく、Being(無)にあるからです。そしてそれこそが、繰り返されてきた歴史を超え、21世紀を切り拓いていく上で、人類にとって最も大切なことなのだと思います。
思えば人類の歴史は、耐えることを他者に強い、またその不条理の中を耐え忍ぶことの繰り返しでした。だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティを単なる「耐える力」と解釈するのは絶対に違う! という直感が、一つの「コール(呼びかけ)」としてのりさんに届いたのでしょうね。これ以上耐えてどうするのだ、と。 むしろ、ネガティブ・ケイパビリティがないからこそ人は他者に耐えることを強いるし、同時に、ネガティブ・ケイパビリティがないからこそ、その不条理に対して「何の苛立ちもなく悠然と構える」ことができなかったのだと考えてみます。そうすると、耐えることを強いる者も、その中で耐える者も、ある意味では同じ課題を抱えていると言えるのかもしれません。ともすれば厳しい指摘にも聞こえますが、この事実を受け止めていけることこそが、ネガティブ・ケイパビリティなのでしょうか。
歴史は繰り返すと言います。しかしそれは、物事の本質が見えていないが故の結果であって、本質に光が当たった時には量子的な飛躍が可能だと信じています。きっと私たちは今、そのような時を迎えようとしているのでしょう。のりさんのこの著書が世に出るのも、そうした時代の働きの一つであり、大いなる希望だと感じています。