岩谷さんの新刊は、以下のように岩谷宏+橘川幸夫の対話方式で進めています。
なかなか大変な作業なのでせ、完成までは、もうしばらくお時間をいただきますが、ご容赦ください。
岩橘対談
●構造案
第一章 70年代ロックについて
第二章 コンピュータとは何か
第三章 社会について
第四章 メディアについて
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岩橘対談
第一章
1970年
橘川・僕が岩谷さんの原稿を最初に読んだのは、「Revolution」というロックミニコミの投稿欄に、岩谷さんと渋谷陽一の投稿が掲載されていて、それを読んで僕も投稿したら、渋谷から連絡があったという経緯があります。岩谷さんは、いろんな雑誌に投稿していたのですか?
岩谷・70年代の初頭は、ロック音楽という表現形式が単なるポップス形式を超えて、アンチ・カルチャーとしておもしろくなってきたご時世で、私もその雰囲気に刺激されたのだと思います。日本にも、橘川氏や渋谷氏を初めとして、そんな人びとがたくさん出現していたので、ロッキングオンみたいなものも、そんな土壌の上に生まれたわけです。
橘川・1960年代の後半から70年代初頭というのは、確かに世界中で文化の地殻変動みたいなものが起きてましたよね。
岩谷・ですから、それまでは、私自身においても、雑誌への投稿のようなコンスタントな執筆活動はしてませんね。シンコーミュージックの女性編集者と渋谷氏とが、かねてから仲が良くて、その線で私がビートルズの「超訳」訳詞集なんかやったのも、私においてロック関連の執筆活動が濃くなる契機だったと思います。
橘川・時代の変化の最先端のセンサーみたいなのが音楽だった気がします。
岩谷・でも、私という個人の全体像から見れば、当時ですら私のメインの関心事は「ロック音楽」ではなくて「コミュニケーション」でした。当時の私は、マーケティング(marketing, 市場創築)と呼ばれる(当時の)新しい企業コミュニケーション活動に関心があり、社員数10名にも満たない新興のマーケティング企業で仕事をしていました。最初期のロッキングオンは、編集部をこのマーケティング企業の事務所の片隅に置いていたのです。その“家賃”の一部は、結果的に私のポケットマネーから出ました。
橘川・岩谷さんの勤めている事務所を転々としましたね。最初は、渋谷のリキパレスのそば。そのあと築地でしたか。社長さんが良い人なんで、若い長髪が出入りするのを許してくれたが、良い人なんで、潰れましたね。そのあとは、橘川が写植屋を東中野ではじめて、7年ほど、僕の事務所が編集部になった。70年代中期の濃いい時代でした。僕も家賃もらっていません(笑)。
岩谷・「正しいマーケティング活動は企業と市場(消費者)のコミュニケーションを密にし率直にする」、という、マーケティングに対する当時の私の思い込みは、間違っていたとは思えませんが、しかし私が籍を置いていたマーケティング企業の業績はふるいませんでした。詳細は別のところで書く機会があるかもしれませんが、21世紀となった今でも、日本の企業はマーケティング、消費者やエンドユーザーとのオープンで熱心なコミュニケーション活動を、あまりやろうとしません。