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アシュタンガヨガの創始者である、
シュリ・K・パッタビ・ジョイスの教えを今に伝える貴重な1冊
『Guruji(グルジ)』を翻訳出版したい!

翻訳作業中の原稿を一部公開しました!

こんにちは。サウザンブックスです。翻訳作業中の『Guruji』の原稿を一部公開いたしましたので、以下、ご案内させていただきます。なお、WEBページにはPDFもアップしていますので、出力してもお読みいただけます。

引き続き、どうぞ宜しくお願い致します!

『Guruji(グルジ)』作品の試し読み(公開日:2017.3.24)

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グルジの弟子デヴィッド・スウェンソンのインタビューより 

 

■アシュタンガヨガとは何ですか? 

質問をかみ砕くと「アシュタンガヨガを日常生活にどのように活かしていますか?」「マ ットの上でやっていることと、それ以外の人生にはどれくらい関係がありますか?」とい うことでしょう。私は、アシュタンガヨガは単なるツールだと考えていますが、あらゆる ことに利用できる万能なツールだというのが魅力です。集中するのが難しい人は、集中で きるようになり、アスリートであれば、身体の多くの部分に役立ちます。とてつもなく素 晴らしいツールで、こんなものは他に知りません。 

ヨガとは、バランスという意味です。では、一体何のバランスなのか? 神と個人のバ ランスとも言えます。世界は相反する力で成り立っていて、すべてのものに相対するもの があります。アシュタンガヨガは、内的世界と外的世界、細部と全体、エネルギー的なも のと機械的なものなど相反する2つのものに取り組みます。最初に目がいくのは練習の全 体的な側面、視覚的な部分でしょう。これが最初にもっとも惹きつけられるところで、「ジ ャンプスルーができるようになりたい、頭の後ろに脚がかけられるようになりたい、あれ もこれもできるようになりたい」と思います。それは目に見えるものであり、私たちに関 わるものですが、まったく別の世界もあります。 

身体のことだけを意識していたらバランスが取れません。身体に相対する側面とは、バ ンダ、プラーナ、ウジャイー呼吸など内的な世界、瞑想的な側面です。この内的世界の入 口はドリシティです。ドリシティは、今という瞬間に集中し、意識を内側に向けさせます。 私たちが探求しているのは、身体の外側と内側のバランスです。アシュタンガヨガの身体 的な側面は、私たちを大地に結びつけるグラウンディングのための紐のようなものですが、 もう一方の内的な側面は実態がありません。 

地面に紐で結び付けられた風船を思い浮かべてください。地面につながっていながら、 同時に宙に浮いていて、バランスが取れています。瞑想のようなエネルギー的なものだけ を意識していたら、地面につながっていないのに空気ばかりが多過ぎて、頭がぼんやりし たり、迷ったりして、浮世離れしてしまいます。身体的な練習が多過ぎると、グラウンデ ィングし過ぎて、感覚が鈍くなり、繊細な部分に気づかなくなります。アシュタンガヨガ は、このような2つのバランスを探そうとしているのです。 

しかし、一日の終わりに本当に大事なのは、練習で気分が良くなったということだけで はありませんか? なぜ練習をするかはどうでもいいことです。練習をする理由は人によ って違いますが、一旦練習を始めれば、アシュタンガヨガのバランスがわかり始めます。 目で見てわかる外的なものではなく、目には見えない内的なものを探求することが、マッ トの上以外の生活やこれからの人生のためにヨガをする唯一の方法です。一言で言えば、 アシュタンガヨガはより良い人生を送るための万能ツールだと言えます。 

 

■どのようにしてアシュタンガヨガを始めたのですか? 

私はテキサス州ヒューストンで育ち、1969 年の 13 歳の時にヨガを始めました。とりわけ 当時は、テキサスでヨガをするのは変わり者でした。兄がやっていたので私も興味を持っ たのです。兄は、南カリフォルニアのエンシニータスでサーフィンをやっていて、毎日サ ーフィンをやっていた場所は“スワミ”(ヒンドゥー教で「教師」の意)と呼ばれており、 それでヨガに出会いました。そこの崖の上にあったのが、パラマハンサ・ヨガナンダのア シュラムでした。兄はビーチでヨガをする人を見て、ヨガの本を買い、テキサスに戻って きてからも、そのヨガをやっていました。 

私はそれを見てかっこいいと思い、兄みたいになりたいと思いました。もし兄がハーレ ーダビッドソンのバイクに乗って帰ってきて、バーで喧嘩をしていたら、私の人生はまっ たく違ったものになっていたと思います。でも、兄はヘルシーな食事やヨガのような健康 的なものにハマって、外の公園でヨガの練習をしていました。(当時のテキサスには)ヨ ガの学校も、ヨガウェアも、ヨガマットもなかったので、ビーチタオルや手近にあるもの でヨガの練習をしていました。 

最初に持っていた本はジェス・スターンの『Yoga, Youth, and Reincarnation(ヨガ、若 さと生まれ変わり)』でした。それから、スワミ・サッチダーナンダの『インテグラル・ ヨーガ』に出会い、最後にはB・K・S・アイアンガーの本にたどり着きました。このよ うな本を読み、日課として練習をするという流れでした。私たちはそうやって、本来の自 分とつながり、内なるものを感じていました。ところがある日、ヨガの練習をしていたら 近所の人が通報したのです。パトカーが公園に駆けつけ、銃を持った警官が飛び降りてき て尋ねました。「君たちここで何をやってるんだ?」 

私たちは両手を挙げて「撃たないでください! 僕たちはただストレッチして、呼吸を していただけなんです」と言うと、「あのね、君たち、近所の人は、君たちが何やら悪魔 の儀式みたいなことをやっている、と言ってるよ」と言われました。周りの人たちには、 白いパンツをはいた長髪の少年たちが、なぜ木の下で流れるように動いているのか理解で きなかったのです。私がヨガを始めたのはそんな環境でした。 

高校時代の私は、ヨガをやり、ベジタリアンで、長髪で、サーフィンもしている、かな りの変人でした。格式高い私立高校ではなくごく普通の高校でしたが、学校からは男子が 長髪なのはおかしいと言われました。すると、父が教育委員会に行って、「私の知ってい る限りでは、キリストも、アインシュタインも、モーゼも、アメリカの建国の父も長髪で した。だから、私は息子に無理に髪を切らせたくありません。どうしましょうかね?」と 訴えてくれたのです。 

それでどうなったと思います? 短髪のかつらをかぶることになったんです! その3 年後、私はこれ以上は耐えられないと思い、不本意ながら家を出ました。両親のことは大 好きでした。いつもずっと私のことを支えてくれました。だけど、もう1年かつらをかぶ るのは耐えられなかったのです。最後の1年は南カリフォルニアの高校に通い、そこで卒 業しました。16 歳だったので、高校に入るのにも法的後見人が必要でした。 

その頃、友だちが「ヨガにハマってるなら、このヨガを見に来いよ。ダイナミックで全 然違うヨガだよ」と教えてくれました。南カリフォルニアでもまだ寒いくらいの早朝、友 だちに連れられて、変わった建物の裏にあるボロボロの階段をのぼって行きました。そこ は、教会と空手教室とヨガ教室が一緒になった場所でした。窓から朝の太陽の光が差し込 んでいて、ドアを開けた瞬間、息を飲みました。まるで部屋や壁が呼吸をし、エネルギー で振動しているような感じがしたのです。 

 

■グルジはなぜ、アシュタンガヨガの3番目の枝(支則)であるアーサナを、出発点とし て力を入れているのだと思いますか? 

ヨガを1本の木と考えます。直線的思考をする人は、「8本の枝があるんですね。私は 今どの枝にいるのですか?」とよく聞いて知りたがります。8番目のサマディは素晴らしい目標やご褒美だと考えます。8本の枝を突破しようとします。目標に到達したいと思っ てしまいますが、結局のところこれは木ですから、急いで育てることはできません。アー サナは一番最初に取り組むものです。肉体は目に見えるし、感じることができるので、最 初なのです。しかし、これはちょっとしたコツのようなものなのです。 

アーサナは子供のおもちゃのようなもので、学ぶためのおもちゃです。私たちは、最初 にアーサナのことだけ考えます。後で、これはマットの上に立ち、そこに立っている間は 自分の頭の中に集中するための、コツみたいなものに過ぎないのだなと気づきます。「そ れでは、どうしてアーサナをやるのでしょう?」とか「アーサナをやる必要はないですよ ね。それはアシュタンガヨガのシステムの真ん中にあって、ツールなのですから」と言う 人がいるかもしれません。 しかし、ヨガをすることと、アーサナの練習をすることは違います。アーサナの練習を すると、体を動かし、鍛えることができます。身体的なメリットがあり、神経系も強くす ることができます。これはグルジが最初にアーサナを勧めている理由でもあると思います。 体と神経系を強くすることで、4番目のプラナヤマをやりやすくなります。 

1日の終わりに、アーサナの練習をしたかどうかは問題ではありません。体が柔軟で強 いからといって、ヨガ練習生やヨギーとして上級ということではありません。もしそうな ら、世界一偉大なヨギーは誰になるでしょう? シルク・ドゥ・ソレイユのサーカスみた いなことが得意な人は、アシュタンガヨガのどんなアーサナでもすぐにできるでしょう。 ヨガの学びというのは、達成しようとする努力の中にあるのであって、体の柔軟性などの 結果にあるのではありません。 

それでも、身体的なものは取り掛かりやすいので、アーサナから実践を始めるのです。 どこかから始めなければなりませんから。だからと言って、まだ取り掛かっていない他の システム(枝)を損なうものではありません。人それぞれ学び方も精神性も違います。ど こからヨガを始めるかは、アーサナがツールだとしても、それは最初の出発点のひとつと いうだけで、後で他のことをするということです。 

 

※本原稿は翻訳作業中のもので、完成版とは異なる部分もございます。あらかじめご了承ください。 

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2017/03/24 16:52