自分も参加してみよう。とお考えのあなたに。
支援金はこのぐらいが適当かな?私もそうでしたが、そんな風に考えるのは、この場合少し違うんだな。というのがこのファンドを始めてわかったことです。
香典、結婚式、見舞金、などもそうですが、私たちはお金というものに対して実は、
あまりしっかり考えてこなかったのではないか?または、実はそもそもお金というものをそんなに大事なものと考えてこなかったのはないか?
周りをみて、金額の多い少ないを決める。これは自分ではお金の価値を決めないということです。そうした場でお金の使い方のイロハを教わるのだが、自分の判断ではない。また、電車のパスを買うときに、なくしたらもったいないから少額にしておこう派と、なんどもチャージするのが面倒くさいからまとめて買っておこう派があるように、
お金の価値よりも、子供のときのしつけ、マナー、道徳観、この辺りの作法が重要視されているように見受けられるのです。お金をどのように使うのが一番脳が喜ぶのか?
の訓練がしっかりなされていないのだと思います。お金のことを話すのはあまり品のいいことではない。によるところが大きように感じるのです。
たぶんですが、ファンドの発祥の地は、アメリカ?だとしたら、
お金は、即物的な欲望を交換するための装置でしかない。ということに迷いがない社会なのだと思うのです。
それに比べ、私たちはお金に対しても情緒を重んじる感性を学び育ててきている。
のかもしれません。神社でお賽銭は誰も躊躇しません。
しかし、支援金(目の前にはない)にお金を使うことで自分自身が満足する(脳の快楽原則)という経験がこれまで、ほぼ皆無なのだと思います。
だから、今支援すれば「商品の機能が便利」で「安く買える」損得&合理的思考にどうしても直結してしまう。お賽銭と安売りの思考は同居するが、本来お金では計れない等価できない「希望」や「想い」には、まったく感性が反応しないのだろうと思うのです。そこにはもしかしたらそこはかとなく存在する宗教観の違いもあるのかもしれない。
よって、私たちはファンディングするという感性にはまだヴァージンなのではないか・
というのが私のFUN→DINGという集金システムへの感想なのである。
つまり、そこにFUNがあるか?
そこはかとない反戦選曲から始まる
peace songs bookには、FUNがあるか?
を問われているのである。
その答えは次号1210発行のfree paper dictionary を待て!
乞うご期待!