台風24号が日本各地に猛威を奮っています。
九州も強風がすごく、特に東側の方々が大変な目に遭っておりとても心配です・・・。
これから関西・関東・東北・北海道に向かっていくようです。
どうか、避難の準備を万端に、災害情報をチェックして少しでも安全が確保できるように備えてください。
みなさまが大事ないことをお祈りしています。
先日諫早にあるデイサービスあいのわさんにお邪魔して、利用者さんのお話しを聞いてきました。
88歳の男性のお話しをシェアさせてください。
73年前、諫早の15歳の少年が見た戦争。
「あ、俺今日当番やった・・・。」
今日、彼は蚕(カイコ)にエサをやる当番になっていた。
その当番になった人は、深夜0時に学校で飼っているカイコにエサをやってから帰宅することになっていた。
家に帰宅できたのは深夜2時近く。
勉強頑張って、高校に進学することになった15歳の少年。
戦時中、ないものづくしのその町で、入学祝いのために万年筆をプレゼントしようと探し回ったお父さん。
今でこそ100円均一でも手に入る代物ではあるが、代々農家をしてきたその両親にとって息子が高校に受かったことはとても誇りであり、希望を託して貴重なお金を万年筆に費やしてくれた。
そんな家族の幸せとは裏腹に、戦争は激化していく一方だった。
「これで勉強ができる!」
念願の高校に入学したものの、学校は自分の想像していた場所と違っていた。
朝、学校に着いて机に筆記用具と教科書を入れたかと思えばすぐに外に出され、食糧増産のために畑を耕した。
そしてそのあと、大村の陸軍将校が直々に学校に来て軍事訓練を受ける。
「お国のために命を捧げろ!敵地に赴き、鬼畜米英を壊滅させ、東洋平和を目指す。日本が勝つために命を捧げられることは本望である。それが貴様らの最も名誉な死に方だ!」
毎日毎日そんなことを教えられる。
天皇は神様で、当時、自分より目上の人たちはとても偉く、天皇と同じように扱えと教えられて来た。
だから、先生や先輩の言うことは絶対で、逆らうことは許されなかった。
1945年の8月9日。
あの日の翌日、学徒動員がかけられた。
先生が言うことは絶対。
「今から諫早駅そばの病院から私たちの学校の講堂に、新型爆弾の被害にあった患者たちを運ぶ。4人一組でタンカを持って病院に向かうように!」
『はい!!』
そのとき少年は知らなかった。どんな人を運ぶかなんて想像もしていなかった。
救援列車で諫早の病院に運ばれた原爆の被害にあった人たち。
人の形をしているが、人であると信じがたい。15歳の少年が見たその光景はこの世のものとは思えない「地獄」が実際にあるとすれば、これがそうだと思った。
年齢も性別も日本人かどうかも分からない。
言葉にはできない、ものすごい臭いが駅から病院まで続いていた。
たまたま腰に下げていた手ぬぐいをマスクの代わりに、鼻を覆うように巻きつけた。
1日に二人。長い長い道のりを往復した。
「チョウセン・・・チョウセンにカエリタイ・・・」
「お母さんはどこ。助けて。苦しい。」
「お水を・・・お水をください!」
タンカから降ろすときに触った被爆者の皮膚の感覚。
あのときの臭いも、見た光景も、皮膚の感触も73年経った今でも忘れられないと言う。
出来ることならば、「嫌です。」「やりたくありません。」と言いたかった、と。
それから5日後、学校では生徒たちはラジオの前で正座していた。
「玉音放送」を聴いていた。
「・・・堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・・」
日本は負けた。
翌週、再び少年たちに学徒動員がかけられた。
「長崎の浦上地区に新型爆弾が落とされた。今もまだ復興が続いており、浦上地区では原因不明の自然発火が見られる。ある学者の言うことには、長崎には70年は草木も生えてこないと言われているらしい。」
「そこで、君たちには実際に作物が育つかどうかを試すためにカボチャの種を植えてきてほしい。」
戦争が終わろうと、先生の言うことは絶対だ。
暑い暑い夏の日だった。
少年たちは列車に乗り、浦上地区に向かった。
街中が黒焦げになっていた。
先生が言っていた通り、足下はまだ熱が残っており、自然発火も所々で見られた。
少年は、何もかもなくなってしまった浦上の土にカボチャの種を植えた。
誰かが生きてたこの場所で。
二ヶ月が経った。
少年は職員室の前で敬礼していた。
「失礼します!先生に用事があって来ました!入ってもよろしいでしょうか!」
「先生!僕たちが植えたカボチャの種はどがんなったとでしょうか。気になって気になって仕方ありません。」
「そうやったな。確認してからまた教えるけん。待っとけ。」
「はい!!」
数日後、先生から結果を報告されて、少年は泣いていた。
88歳のおじいちゃんは思い出したように涙を流していました。
「そのとき、どうして涙が出たのか分からなかった。でも、今なら分かる気のする。
僕たちが植えた、カボチャの種は芽を出したと。70年は草木が生えてこないって言われたあの場所で。ちゃぁんと芽ば出したとさ。
なんもかんも奪われてしまったあの土地で、カボチャの種が芽を出したってことがさ、当時15歳の少年やった僕にとって「希望」やったっちゃなかとかなって。」
15歳のとき、一緒に4人一組で被爆者を運んでいた仲間が34歳で亡くなった。
病院で「原因は間違いなく原爆症でしょう。」と担当医から告げられたそうだ。
諫早で、おいたちは原爆におうとらんはずとにどうして原爆症で死んだとやろうか・・・。
昭和49年、被爆者の救護にあたった方々に被曝手帳が交付された。
被曝手帳をもらってからも周りの人たちに妬まれ嫌味ばかり言われる日々。
「なんでわいが被曝手帳もっとっとや。病院代タダにするためにこすかことばしたとやろ。」
そんな心無い人たちがいるから、説明をしようとも思ったが、当時のことを思い出すとものすごく気分が悪くなり、いろんな感覚が昨日のことのように思い出される。
なおさら自分の体験談を語ることができなかった。
「聴いてくれてありがとう。」
そう言って、たくさん涙を流された。
73年間。
長い長い間、戦争を体験した人たちは「言えないこと」を心の奥深くに鍵をかけてしまっている。
話すこともとても辛かっただろう。
でも、意を決して話してくださったことが、もしかしたら彼の背負ってきたものを少しでも軽くすることができたかもしれない。
無理やり引き出すことはいけない。でも、きっと一人で抱えてきて苦しんでいる人もたくさんいる。
だからこそ私たちは知ろうとしなければならない。
私たちは忘れちゃいけない。
彼らが体験してきたことを、決して忘れてはいけない。
彼らが守ってきたもの「平和」をこれから先もずっとずっと守っていくために。
私たちを含む、これからを生きる人たちに
二度と「戦争」を体験させないために。
取材に協力してくださった「あいのわ」の代表取締役の坂枝さんはじめスタッフの方々。
貴重な体験談を話してくださった利用者のみなさま。
心から感謝しております。
引き続き、当時の記憶を記録するために取材させていただきたく思います。
よろしくお願いいたします。
代表 松永瑠衣子