被爆3世、26歳の挑戦。
わたしが先生をやめてでも「今」やると決めたこと。
〜《被爆の継承》のための本づくり〜

NAGASAKI HAPPEACE PROJECT 「ミライにつなぐ ~被爆の継承~」講演会

■史実を語り継ぐ

「誰でもできる被爆の継承」をテーマに、被爆3世である松永瑠衣子(26)が、代表的な被爆の語り部、下平作江さんと、自身の祖母である松永スエ子さんの人生を本にまとめ、原爆の悲惨さや平和の尊さを発信する「NAGASAKI HAPPEACE PROJECT」(NHPP)の講演会が7月16日、長崎市茂木町で開かれ、NHPP代表の松永と下平さんが対談した。

松永は、下平さんへの取材で知った戦中の穏やかな暮らしを紹介。下平さんとともに、その日常を壊したのが一発の原爆と強調した。下平さんは「人間らしく生きることも死ぬこともできなかった」と悔しさをにじませ、「二度と戦争を起こさせない」との思いで語り部活動をしていると説明。聴講者約50人は、日々の大切さにあらためて思いを巡らせ、貴重な証言を聞き取り、史実を語り継いでいくことの重要性を再確認した。

 下平さんが歩んだ人生について解説する NHPP代表 松永瑠衣子

 

■戦時中をリアルに

松永は冒頭、「原爆」を語る際、一番に注目が集まるストーリーが被爆体験と指摘。しかし「戦時中にも家族と過ごす幸せ、ありふれた日常があった」ことに触れ、「たった一発の原爆がそれを破壊し、その後も苦しみを与え続けてきた」と被爆者の苦悩を代弁した。下平さんの人生の解説を通して73年前の生活をリアルに想像し、「被爆の継承、事実を知ることの大切さを感じ取ってもらいたい」と呼び掛けた。

 

■満州から日本へ

下平さんは1935年、満州で生まれた。満州鉄道で働いていた父が日中戦争で亡くなったため「父の元に残る」と言う母を残し、1940年に妹と帰国。松永は、満州について「当時の大都会。日本にとって夢の国だった」とし、映像を交えて街中の様子を紹介した。下平さんは帰国後、叔父叔母の家で暮らし、いとこらとの穏やかな生活を送っていたことを伝えた。いとこの子は「日本には大和魂が足りない」との理由で「魂」との名が付けられたと、当時の時代背景を解説。「塊」と読み間違えられたとのこぼれ話も伝え、笑いを誘っていた。

戦時中のありふれた日常と、その日々を破壊した原爆について語る 下平作江さん

 

■遺骨の代わりに爪を

叔母を母と思っていた下平さんは、親族を兄や姉として慕っていた。だが、うち2人が特攻隊に志願。下平さんは「手や足がなくなっても、這ってでも帰ってきて」と送り出したことを回顧した。特攻隊は、軍用機などで相手の戦艦に体当たりし、自爆することを前提としていたため、遺骨すら戻ってこない。下平さんは「『爪切りを持ってこい』と言われた。戦死後も忘れないようにお墓に納めてくれという願いだった」と肉親を戦地に送り出した悲しみを振り返った。

 

■11時2分

1945年8月9日。朝から空襲警報が発令されており、下平さんは妹の手を引き、赤子をおんぶして自宅から防空壕に。警報が解除になり、壕から出ようとした時、妹が「警報が鳴り止んでも爆弾が落ちることがあるからしばらく待っているようお兄ちゃんと約束した」と明かした。その場にとどまり迎えた11時2分。下平さんは爆風で吹き飛ばされ、気絶していた。

「辺りに家は1軒もなく、黒焦げの死体がいっぱい。叔母の死体は見つからず、医学生だったいとこの兄は再会して無事を喜んだのもつかの間、亡くなった」と当時の惨状を説明した下平さん。「助かったのは3人だけ。どうやって生きていけばいいか分からなかった」と日常が一変した当時の心境を吐露した。

松永は「妹さんの言葉がなければ、下平さんも生きていたか分からない」と原爆の怖さに触れ、親族を引き裂いたむごたらしい兵器であることを強調した。

 

■生きる勇気 伝える義務

被爆後について、松永は「原爆を生き抜いた人が肩を寄せ合い、お互い助け合って暮らしていた」とし、当時の人々の力強さに胸を打たれたことを明かした。下平さんは、医師を志して懸命に勉学に励んだことなどを回顧。いじめに悩んでいた妹にも「勉強を頑張れば人に認めてもらえる」と伝え、何とか前を向き生きようとしていたことを振り返った。

しかし、妹は列車に飛び込んで自殺。「人間らしく生きることも死ぬこともできなかった」と最愛の妹を亡くした悲しみ、悔しさを吐露した下平さん。「後を追おうと何度も線路まで足を運んだ」と明かした。だが「私には死を選ぶ勇気はなかった」と当時の心境を説明し、同じ体験をする人が二度と現れないよう被爆の実相を伝えるため「生きる勇気を選んだ」と述べた。

 

■花を供え続ける

「死ぬことはない。一緒に生きていこう」。松永は、下平さんが心に留めている大切な台詞として、下平さんの夫である隆敏さんの言葉を紹介した。命を投げ出すのではなく、どんなに辛くても生きて、妹に花を供え続ける。その言葉に固い決意を結んだ下平さん。今も懸命に語り部を続けている。「今、皆さまとともにいる。生きていて良かったと思う」と、感謝の言葉を添えて講演を終えた。

 

-・-・-質疑応答-・-・-

Q.これからの若者に望むことは?

下平さん:両親がいることがどれだけ素晴らしいことが自覚してほしい。「核兵器は廃絶すべきだ」と的確に伝えているつもりだが、まだ十分に伝わっていない。残念に思う。核兵器は1発で何万人もの命を奪う悪魔の兵器。時代が移り変わり、そのことについて知らない若い世代が増えている。その人たちに伝えて行くことが私たちの責務だと考えている。

 

Q.この講話に至った背景や過程について

松永:私は16歳の時、10年前に参加していた高校生1万人署名活動で下平さんと出会った。正直、その頃までなぜ平和学習をするのか理解ができていなかった。被爆講話を聞くのが怖い、嫌だという思いがあった。しかし活動で下平さんと出会い、手の届く距離で話を聞くことができ、講話が心に突き刺さった。下平さんがご存命でいることは奇跡に近いことだと実感した。下平さんのような被爆者、戦争体験者が必死に生き抜いたからこそ、自分の命があるということに初めて気付いた。

私たちの世代は被爆者の生の声を聞ける最後の世代。被爆者はいつまで語り部活動をできるか分からない。下平さんが言ってくれた「平和のバトンをあなたに」という言葉。その言葉、握られた手の温かさを私は忘れることはできない。活動をけん引する被爆者が次々に命を落とされている。話を聞きたいと願ってもかなわない。被爆者がなぜ被爆講話をしているのか。一人でも多くの人に肌で感じ、受け止めてほしい。思いを受け取る人が一人でも増えればと考え、被爆の継承、本作りをしようと決心した。下平さんの人生、祖母である松永スエ子の物語を書くつもり。1945年8月9日11時2分、長崎に住んでいた全ての人が被爆というまったく同じ体験をした。下平さんが45年間語り部活動を続けている一方、祖母は原爆の話を語ったことがない。被爆の差別に怯え、家族を守るために、声に出せない人たちがいたことも伝えなければいけないと思っている。

私の中で「誰にでもできる被爆の継承」をテーマにやっている。おそらくここにいる皆さん一人一人が、先祖に戦争体験者がいる。もちろんご存命ではないかもしれない。原爆が投下され、終戦を迎えてから73年経った。これからもずっと戦争体験者が話をできるという保証はない。だからこそ一人でも多くに継承をしていたければと思っている。

戦争の悲惨さ、つらさに一番注目しなければいけない。一方で、ありふれた日常に一発の原爆が落とされ、それでも幸せや喜びがあったからこそ今まで生きてこられたことも事実。戦争体験を話せる方が身近にいれば興味を聞いてもらう。その内容を伝えていただけたらうれしい。それが継承の一部になると思う。

被爆者の一番の願いは、二度と自分たちと同じ被爆者をつくらないということ。そのためには核兵器は一発でも残っていてはいけない。一発でも残っていたらまた長崎、広島のように何万人、何十万人が亡くなる可能性がある。自分たちのためではなく私たちが生きる未来のために話してくれていることに一人一人が気付き、未来を選択していけたらいいと思っている。

 

〈被爆者の願いとは?〉

被爆者の一人で会場に駆けつけた城臺美彌子さん。第69回の長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典では被爆者代表挨拶を務めた。

 

小中、高校生に被爆体験を語る機会はあるが、成人した若い方に伝えるチャンスはない。非常にうれしく思う。

被爆者はこれまで世界に向かって核兵器はごめんだと、長崎でピリオドを打とうと、放射能汚染は長崎で終わりにしようと叫んできた。戦争はどこであっても何のプラスでもないことを、原爆を通して知ってほしい。

いま日本という国がどういうことをしているか関心を持ってほしい。被爆講話に耳を傾け、「原爆は大変だった」で終わってほしくない。今の政治が何をしようとしているのか。一番しなければいけないのは政治に関心を持つこと。

 

若い世代への願いや、被爆者の思いについて語る  城臺美彌子さん

2018/08/03 15:58