東大寺の管長、狭川普文さんのことを書こうと思います。222代別当であり、223代別当でもあります。東大寺きっての大勧進職です。2期管長を務めています。予定では来年3月で職務は引退し、長老の仲間入りになります。頑張って3期務めて欲しいと願うのは私だけではないと思います。
重源さんを東大寺に納めてから、7,8年経ちましたころ、いきなり狭川さんから電話がありました。狭川さんは、袈裟を脱げば吉本興業でも勝負できるバリバリの関西人です。私が学生の頃2年間東大寺を出入りしていましたが、1度も狭川さんと知り合う機会はありませんでした。その1度も会ったことのない狭川さんから電話でいきなり「菩提僊那」を作って欲しいといわれました。なんだかよく理解できませんでしたが、とりあえず東大寺に伺うことにしました。それまで面識を持った東大寺のお坊様は見るからに重々しくて学者さんみたいな方ばかりでしたので、本当に私に電話をかけて下さった方が、東大寺にいらっしゃるか不安でしたか、実際にいらしてほっとしたのを昨日のように思い出します。お会いして、お話しした第一印象は「東大寺の籔内さん」でした。お会いした時も仕事の話は数分で、それ以外は狭川節で、正直仕事頂を頂いていいんですか?と突っ込んでしまいました。
狭川さんは、私にこう言いました。「上原さんは重源さんを最後まで彫り上げて東大寺に奉納された、それは大仏様があなたを選んだからです。下心があると絶対最後までやり通せません」ちなみにこの言葉は関西弁に翻訳して下さい。まあ、そういってもらえるのはありがたいので、余計なことは言いませんでした。後になって、いろいろ東大寺の周辺話を耳にすると狭川さんがおっしゃった言葉にひしひし重みを感じます。
狭川さんにはだれも勝てないです。今回こそは自分の意見を通してもらいたいと突撃隊の気分で対峙しても私など一ひねりで終わりです。何せ相手は袈裟を着たお社長だ、勝てるわけがないです。打ち合わせの間は私自身いい方向に話がまとまったようなうれしい気分で新幹線に乗って帰宅するのですが、玄関に立ってはっと気が付くのです。私の意見は全く通らなかった、それ以上に狭川さんの意見に全て賛同してしまったということに気づかないで帰ってきたことに気ずかないほど、魔法をかけられてしまう狭川マジックの恐ろしさを痛感するのです。
数年前狭川さんから連絡がありまして、「東大寺と東北展」に私の重源さんが、本物の重源さんのピンチヒッターで展覧会に出品し、展覧会が無事終了すること、東北復興の祈りを捧げるためのお像として、レセプションの空間の中心に安置させて欲しいとおっしゃいました。またまた何を言い出すのかと思いましたが、旅行気分で私の木彫教室のメンバーで仙台に行きました。式典では東大寺のお坊様が私の重源さんにお経をあげて下さり、あの村井知事もみうらじゅんも伊藤せいこうも手を合わせて下さいました。私の心内は不謹慎ながら、きた~!みうらじゅん!!と盛り上がっていました。ごめんなさい。
もちろん仕事もしました。狭川さんと菩提僊那の彩色を担当して下さった篠崎有美子さんとの講演です。予想通り講演前数ヶ月東大寺の執事室と打ち合わせをし、メールでした原稿も作り、レジュメも用意しましたが、全てすっとんでしまいました。狭川管長の独壇場です。私の数ヶ月に及ぶ執事室とのした原稿の準備、レジュメ作成など全部すっとんでしまいました。まあ、慣れてますけど、、。
もし、私のブログを読んで狭川さんて、どういう人か知りたくなりましたら、NHKの特集番組のタイトルは忘れましたが、コロナ禍のお水取りの番組に出ています。YOUチューブで見えると思います。皆さんは気づくと思います。誰よりも人のために働いている狭川さんの真の姿を見ると思います。
いつか眼が治る日がきましたら、狭川さんを作ってみたいです。令和の重源さんとして、そうではありませんね、令和の普文さんとしてです。
あと一つ余計な話ですが、もしまたごちになる機会がありましたら、どこのお店よりも東大寺の本坊のお坊様のご飯が何よりも好きですので、こちらでお願いします。イタ飯好きの狭川さんとのぴざもおいしいです。まあ、1度でいいから狭川さんをギャフンと言わせたいです。