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【不完全燃焼の連載『祈りのかたち』を書籍化】視覚障がい者にも読める本「LOW VISION BOOK」を広めたい

金沢朋子さん連載3話

 私たち現代人は、心のどこかに「木で生きている人」への畏敬の念を秘めている。三輪さんに会う時、いつも背筋がピッと伸びるような緊張感を覚えるのは三輪さんに木の精が宿っているからではないだろうか。

三輪さんから、「長い文章もOK」とのことなので、拙いブログで恐縮ですが、その中から木地師のお墓を探しに行った日の記事を転写させて頂きます。文中の写真も見たい方は、古代史ウォーカー(http://artbi456.blog.fc2.com/blog-category-44.html)までお願いします。

一人探検の日 木地師の墓を探して

 久しぶりに、予定のない日曜日。
一日まるごと自由だ。
ブラボー!
~そうだ!今日は、以前から気になっていた木地師(きじし)のお墓を探しにいこう。~
例によって、一人探検隊に出かけることにした。
場所は、上野村。
群馬県でこの上野村にだけ木地師のお墓が残っているという情報をキャッチした。
「木地師のお墓」 
ゾビゾビ魅かれる。
今日は午後から雨になるという。
レインコートと傘も車に入れた。
果たして、念願の木地師のお墓を探し当てられるのだろうか?

* * *

木地師とは

 私か初めて「木地師」を知ったのは、湖東三山のバスツァーだった。 滋賀県永源寺を訪ねた時、永源寺の山の上にある「木地師資料館」のチラシを目にしたのだ。 そのチラシの中の白洲正子の文章に、マイ・ハートは射貫かれてしまった。(白洲正子をそれまでは、どちらかというと「嫌い」でした。(笑)) 観光地として定評のある湖東三山よりも私は「木地師」の存在に驚き、そして、強く魅かれた。 木地師についての白洲正子の文章が、何か精神の深い部分に響いた。 日常生活では、味わったことのない美の衝撃。 白洲正子という欧米の文化を体験した人の審美眼を通して、欧米化される以前の日本の美の再発見であり、民俗学と古代史と美学が見事に白洲流に昇華されている。 何度読んでも、深くて新しい。

 平安時代のはじめ、9世紀中頃、文徳天皇の第一皇子惟高(これたか)親王は皇位継承の争いに敗れ、愛知(えち)川をさかのぼって小椋谷に移り住んだ。 隠れ住んでいる間に法華経の巻物の紐を引くと、回転することに着想し、「手引き轆轤(ろくろ)」を編み出し、その技術を里人に伝承したと伝えられている。 木地師の人々は、惟高親王を祖神とあがめ、その随身の末裔であることを固く信じていた。

 そして時の天皇家、朱雀(すざく)天皇、正親町(おおぎまち)天皇の詔(みことのり)をはじめ、菊の紋書に守られて、通行の自由や緒役免除といった木地師の特権を与えられていた。 ~木地師とは、「16枚の菊の紋章」の使用が許され、各地の山を巡って斧で木を切り、轆轤を回して椀や盆、木鉢、杓子などを作ることを認められていた人たちのことをいい、永源寺町(東近江市)が、発祥の地とされる。 私はふだん使いに「朽木盆」とか「朽木椀」とよばれる食器を用いている。

 ・・近江の朽木谷には古くから、木工を専門とする集団がいて、このような食器を大量に生産している。 彼らは、木地師、木地屋、ろくろ屋、こま屋などとよばれ、良材を求めて諸国を旅する流浪の民であり、朽木の木地師もいつの時代にか、そこから分かれた人たちなのである。 このあたりの木地師の集落を「六ケ畑」という。君ケ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、九居瀬の六カ村で、その中君カ畑と蛭谷が、木地師の伝承を色濃く止めている。~
                             白洲正子 「隠れ里」より

* * *

湖東三山のバスツァーを終えて、私はいつか必ず、一人で木地師資料館と筒井神社を訪ねようと決意した。
そんな木地師が、この群馬県の上野村にもいたのだ!
良材を求めた流浪の民たち・・・・
木を加工する技術だけで生き抜いた人々・・・
なんとしても16枚の菊の紋章の木地師の墓をこの目で見てみたい。
下仁田町の古い街並みを通って、南牧村へ
山と山の間を縫うように流れる南牧川に沿った一本道の道路をひたすら走る。
両脇に、時々、家々が点在する。
ひたすら南下する。
長い「湯の沢トンネル」を抜けると上野村に出た。
「木地師の墓印として現在県内で確認されているものは、上野村野栗の宝蔵寺にあるもの一つしかない」とされていたのが、もう一基発見されたそうだ。
何人かのカメラマンが集まり、この村の石仏写真を撮っていた時、偶然その中に16の菊の紋章のある墓石があったのだ。
そして、この無縁仏を憐れんだ宝蔵寺の住職が、兼務寺である泉龍寺の境内に納めたそうだ。
上野村を東西にはしっている国道299号に沿って乙父(おっち)へ、まず乙父のJAマートへ行った。

ちょうどお昼になっていた。
川を見ながら、焼き肉を楽しんでいる家族連れや老夫婦がいる長閑な光景。
焼き肉よりも素朴な村のお蕎麦をオーダー600円の田舎のお蕎麦の素朴な味に、感動した。
「あの、この近くに泉龍寺というお寺に行きたいのですが・・歩いて行けますか」
「ああ、すぐ近くですよ 誰もいませんけどね 」
細い小道を歩いていくと十石味噌工場の裏側にあった。
小雨になったので、レインコートを着て、傘をさして歩いた。
集落の中に無人の泉龍寺はあった。
直ぐ、前に自然のままの川が流れていた。
何より川が好きだ。
何時間でも見ていられる。
神流川だった。
静かな川が流れる村のはずれの無人のお寺そこに木地師のお墓はあった。
草むらの中に、ひっそり佇んでいた。
その場では、彫ってある文字がすべては判別できなかった。
童男という文字は読み取れたので、子どもの墓であることは分かった。
帰ってから資料を読んだら「泉龍寺に移された石仏は、高さ四十八センチの舟形光背で上部に菊の紋章をあしらい、左手に蓮華を持った聖観音菩薩が浮き彫りにされている。
むかって右に天外是惟童男とあり、左に文政二卯年氏四月二日とある。
墓石の形や戒名からおそらく子供の墓印と思われる。」とあった。
生きることそれそれ自体が現代よりもずっと厳しかった時代に死んだ子どもの墓を建てた木地師の嘆きにその墓をここに安置した住職に
様々なことを想像し・・・・
何故か
その場を離れがたく暫くその場に佇んでいた。
良材を求めて、山から山へ土地を持たない放浪の民
木材を加工する技術を継承し続け、自然と調和して、生きた人々のことを想った。

その後299号を飛ばして、村東の野栗集落へ
「宝蔵寺」の標識があったので、間違いなくいけると思ったら、通り過ぎてしまった。
消防団の人たちがいて 訪ねると もう通り過ぎてしまったらしい。
指示されたとおり少し戻ると宝蔵寺に着いた。
初めての土地では、とにかく現地の人に訊くに限る。
宝蔵寺も無住の寺で、人影はなかった。
山の上に墓地が広がり、ひとまわりしたが、広すぎて見つけられなかった。
雨が降って来たので、今回は残念だけど・・と退散モードになった時、一台の軽トラが近づいてきた。
~この村の人にとって明らかに私は闖入者、怪しい人に見えるだろう~
ダメ元で訊いてみるきゃない。
運転手のおじさんに挨拶した。
「何してるんだい?」
「・・・木地師のお墓を探しています」
「ああ、そっかい。木地師の墓は、それだよ!」
なんと!入り口の石仏群の中にあったのだ。
親切な運転手に何度もお礼をいった。
「女の人の墓石ってのは、わかるけど。
これが菊のご紋章だとは、知らなかったね。
あのね、俺はいったことないけど、他にも木地師の墓があるらしいよ。
仲間がみたことあるってよ。場所はね・・・・」
超レア情報まで教えくださった。
ありがたい。感謝、感謝。
念願の木地師のお墓を二基とも探しあてることができた。
乾いていた心が、満たされて満足。
車に戻った途端に、叩き付けるような、激しい雨になった。

今、私達の人間活動が地球の生態系を狂わせている。
大量生産・大量消費そして大量放棄が、限界に達して、地球が悲鳴をあげているのだ。
良質の木材を求めて、山から山へ放浪した木地師は、自然に調和し、地球環境に決して迷惑をかけなかった。
CO2排出量も私達現代の日本人の何百分の一、いや何万分の一だろう。
土地をもたない、放浪の生活。
けれど、自然からの恩恵に感謝し、木材加工の技術を継承し、ものつくりをする人の独特な高貴な精神をもっていたのではないだろううか。
それが、16の菊のご紋章と惟高親王への信仰に象徴されているのではないだろうか。
かたや私たちは、いろいろなものを所有している。
家を持っている、テレビにパソコンにスマホを持っている。 
車も洋服も雑貨も 世界中の裏側からグルメな食材を取り寄せている。
でも地球の裏側で米国の軍需産業の利益の為に殺されている人々のことを傍観している。
他者の痛みが分からない 想像力の欠如・・・
どこかで感性が壊死しているのでは、ないだろうか。
私達現代人は、多くの物を所有しているのに、木地師のような高貴な精神をもっているといえるのだろうか?
物を所有することと人間性・精神の高貴さは比例しないのだろうか・・・・・・
そのようなことを考えながら、帰路に着いた。

2021/09/18 10:22