一昨日の夜もホームレスのパトロールに行ってきました。
黄金町で台湾から来ていたアーティストが帰国するというのでお別れ会があり、少し遅れて行きました。
すると、いつもより進みが悪い様子で、事情をきいたところ、手がグローブのように腫れ上がっている方がいて救急車を呼んで待っているとのことでした。
数名を残して、ほかのメンバーでパトロールを続けていましたが、後ほどきくと、救急車が到着したのですが、本人が望まなかったので連れていかなかったとのことでした。
救急隊員に「一緒に乗って行って責任を取れる方いますか?」と言われたときに、誰も「はい。」と言える人がいなかったのだといいます。
私には専門的な知識も資格もないので、この結果を受けて何かを言える立場ではないですが、「人を助けること」についていろいろと考えました。
実は、私の作品のテーマの一つに「人を助けること」というのがあります。
弘前大学在学中に、彼氏が鬱病になってしまった先輩から
「人は最終的には助けることができない。」という言葉を耳にしました。
その数年後、私の友人が自ら命を絶ちました。
バカみたいに明るい性格で、私が落ち込んでいるときに叱咤激励をするような人でした。
ですから、そんなことをするとは思わなかったのです。
何度も「死にたい。」という言葉を受け取っていましたが、私は死ぬはずがないと思い込んでいましたし、「何言ってるんだよ。歴史に残るものつくれるまでがんばろうよ!」とか、励ましたらいけないのを知らずに励ましたりして友人に逆ギレされたりしていました。
友人は知らないうちにこの世から去っており、何か虫の知らせを感じた別の友人から連絡があり、電話してみたら同居していた彼が出て、現実を告げられたのでした。
私は彼女から何度も信号を送られていたのに、それに向き合おうとしていませんでした。今忙しいから、たぶん大丈夫だろう、今はそういう時期なんだろうとか、心配だけど自分の生活もあるし、時間が解決してくれるだろうと思っていました。
私はひどく後悔しました。
しかし、大学のときの先輩の「人は最終的には助けることができない。」という言葉も頭の中にうずまきました。
私の中では彼女は病死だったのだというふうに考えることにしました。
今でももう少し生きておけば、こんなおもしろいこともあって一緒に共有できたのになあと思います。
そしてやっぱり私も「人は助けることができない。」という結論を出しました。
だけど、その手前までのお手伝いはできる限りやろう。ということを決めました。
では、その人を助けることができるのは誰か?といったときに、助けることができるのはその人自身なのではないかと考えました。
「トビヲちゃん」の名前の由来は、Autobiographical Memory というインターネットで目にした記憶に関する学名のようなものからとりました。
子どもの頃の記憶はが大人になっていても深く残り、わたしたちの生活に影響をもたらします。
現在わたしたちが見ている子どもに注目すること、そして自分自身の子ども時代に向き合って今を生きていくための強さを持てるように、そんな願いを込めて作ったのが最初です。
今では一人歩きをしていろんな解釈が生まれて、それはそれでトビヲちゃんも喜んでいます。
「人を助けることはできない。助けることができるのはその人自身だけ。」
という結論を出してから10数年経ちましたが、ちょっと疑問が出てきました。
本当に、本人が望まなければ助けなくていいのだろうかということを寿町でちょっとした場面で感じることがあります。
「助けてほしい。」と言えない人の気持ちを組む、もしくはそういうふうに言えるような雰囲気と関係づくりをする。
時には、「全然、大丈夫じゃないじゃないの!」と強引に助ける。
そいうことも必要なのではないかと思ってきました。
何にしろ、いろんな人がいていろんなことが起こります。
答えはありません。
ですから、現代アートのような答えのないものに多くの方が触れることで、何かを乗り越えていけるような寛容性を備え付けることができるかもしれないと考えています。
美術で社会貢献しようなんてことは考えなくてよくて、まずはただひたすら作品に向かっていいものを作っていれば何かしらの結果は自然と出てくるという考えですが、それでも、私は美術のあらゆる可能性を信じています。
※1月20日現在の加筆です。
ホームレスパトロールの際、搬送を拒否した男性は翌日寿町内の診療所に保護され救急搬送され、現在入院中とのことでした。