これから、さまざまな方の「私が影響を受けた先生のコトバ」をお送りします。まずはTeach For Japanの職員Aさん(匿名希望らしい・38歳男性)が影響を受けた教師の言葉から。長文失礼します。
==
【先生のコトバ】
「走れメロスって、実は変な話だよな」
==
これは、私が中学校2年の時の国語の先生が、走れメロスで最後の場面も終わって、授業が終わるまで少し時間が余ったときに言った言葉です。
それまでは、おそらく「走れメロスの単元で、普通教えること」として、友情の大切さや相手を最後まで信じる気持ちなど、【走れメロス=友情の物語】という定番教材の解釈が再現され、それこそ教科書的なことを教わっていました。そして私は、それらを「お約束」的なものとして物足りない気持ちで聞いていました。
しかし、余った時間で先生が「走れメロス、ここがおかしい大会」なるものを始めました。「走れメロスを読んでいて、ここがおかしいって思ったところはないか!?」と。…クラスでは、結構手が挙がりました。挙がったのは以下のようなことでした。
・メロスが買い物の途中にイキナリ王を殺しに行くのはおかしい。計画性がなさすぎる
・そもそも買い物をしていたのになぜ剣を持っていたのか
・自分が捕まったら勝手に友人(セリヌンティウス)を人質にした。ひどすぎる
・妹の結婚式を突然挙げさせるのは迷惑すぎる
・走っていたら最後の方でいつの間にか全裸になっているのはおかしい(笑)
・最後、突然友人と殴りあうのもヘン
・勝手に友人を人質にしたくせに、それを救ったヒーローになっているのは自作自演にもほどがある
などなど。途中からみんな自由な発言が面白くなり、ウケ狙いの生徒も出てきて、それはそれは盛り上がりました。そのうち、確かにこの話、結構しっちゃかめっちゃかだなとみんなが気づいた頃、先生が「走れメロスって、実は変な話だよな」と言いました。
続けて、確かこんな内容のことを言いました。(たぶんこんなにきちんとまとまった言い方ではありませんでしたが)
「この話は一般的には『友情の話』だって言われているけど、だからといってみんながそれをそのまま受け取る必要はない。今みたいに『おかしい』と思ったら、その気持ちを大切にした方がいい。『走れメロス』はもちろん友情の話とも読めるけど、単なる身勝手で周りに迷惑をかけまくっている独りよがりな男の話にも読める。物語もそうだけど、物事はいろんなふうに受け取れるんだから、いろんな見方ができることを知って、いろんな見方ができるようになってほしい」と。
最後の方は、授業の終わりのチャイムが鳴っていましたし、それに急かされるかたちで先生も急ぎ目でさらっと話していたのを覚えています。先生としても、「よし、生徒にこのことを伝えよう!」という思いがあったというよりは、残りの授業時間をやりくりするためにちょっとやってみたくらいのものだったかもしれません。しかし、『走れメロス』という名作に対して「ここが変!」とツッコミを入れていく痛快な気持ちや、これまで「走れメロス=友情の話」として一般的な解釈を押し付けられていたところから解放されるような気持ちがありました。で、「自分が感じたことを大切にすればよい」というのが、物語を読むときや国語という教科に限らず、あらゆることに通じる金言のように感じました。
これがきっかけ・・・なのかは正直わかりませんが、今も、自分が感じた違和感などは見過ごさず、言葉にするようにしています。(もちろん大人なので、それをどのように伝えるかなどはTPOを踏まえますが)
そんなわけで、「走れメロスって、実は変な話だよな」は私にとって、一般的な常識や社会通念であってもそれをそのまま受け入れるのではなく、おかしいと感じたところがあればその気持ちを大切にするべきだ ということを思い起こさせてくれる言葉です。