カテゴライズから自由になって人が繋がれる場所
誰もが入りやすい「足湯カフェ」を新宿二丁目に

トークショー「新宿二丁目の歴史・文化・地理研究会」レポ

こんにちは!足湯カフェどん浴です。
どん浴はいよいよ工事が始まり、あのオフィス状態の部屋からだいぶ変化しております。次の活動報告では工事の様子をアップさせていただきますね。

さて今回は9月17日に開催されたトークイベント「新宿二丁目の歴史・文化・地理研究会」レポをお送りします。

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三橋 順子先生

ジェンダー&セクシュアリティの歴史学研究。
男性から女性への性別越境者の立場で講演・執筆活動を始め、2000年に中央大学文学部の講師(現代社会研究)に任用され、日本で最初のトランスジェンダーの大学教員となった。現在は、明治大学、都留文科大学、東京経済大学、関東学院大学、早稲田大学、群馬大学(医学部)非常勤講師。

 

フタミ商事 二村社長

新宿二丁目のメイン通り、仲通り1Fの蕎麦屋さん更科の隣りです。創業は昭和37年、オーナー様やテナント様との長年にわたるお付き合いを通じて、信頼関係を培い、新宿二丁目の物件についてはどこよりも詳しく知っている不動産屋さんです

 

須崎さん

博士後期課程1年生。趣味はサッカー観戦。好きな食べ物はウニ

 

「新宿二丁目の歴史・文化・地理研究会」レポ

フタミ商事の二村社長、須崎さん、三橋順子先生を迎えて、トークショーが始まった。
三橋先生はこの日、足湯のイメージに合わせた上品な着物を着て登壇された。

 

 

----研究のきっかけについて

二村社長
 「新宿二丁目の仲通りで昭和37年に創業し、不動産企業をしている。
二丁目で生まれ、15歳までフタミビルの5階に住んでた。中学生になるとゲイの人に尾行されたり、トイレに連れ込まれたそうになったり、怖くなって引っ越した。
大人になってゲイバーに行った時、どこにいても良い人も悪い人も、好きな人も嫌いな人もいると気付き、この街に戻るようになった。
そしてフタミ商事で12年勤め、社長になり10年経つ。この街をどういう街にしていこうか、LGBTタウンという素晴らしさをずっと継続していくためには何をしていけばいいのかを考えるようになった。」
 
 
 
須崎 
「地理学を専攻していて、あまり自分に相性が合わないという感覚あったが、そのなかで関心のあるテーマを探していた。本を読んでいた時に、ゲイ男性の人が集住する海外のカストロ地区について、地理学の研究がされていることを知った。当時は2014年なので日本では同性婚など制度の導入も黎明期だったと思うが、地理学において、日本ならどこまでできるのかやってみようと2016年頃に研究を始めた。
まだまだ未熟だが、研究をしていると街にとても魅力を感じる。歴史的な背景も含めいろんな意味で魅力。個性のある場所はとても強いし、今後重要になってくると思う。」
 
 

三橋
「歴史学を研究していたが、今とは無縁な専門。歌舞伎町で女装スナックの手伝いをしていた頃から、歴史学を学んでいる人間の悪い癖で『この店はいつできたのか』と頭に年表を作りたがる。それが分かると同じような店ってその前にあったのかが気になる。そうしてどんどん遡っていく。
1998年頃、自分が社会的性別を移行した後は、日本におけるトランスジェンダーの歴史研究を専門にしようと思った。2008年に一つの区切りで『女装と日本人』という本を出した。
その後、視野を広げて、新宿全体の歴史地理を研究することにした。
新宿の面白いところはセクシャリティごとに地理的に棲み分けてるところ。
ヘテロは歌舞伎町。女装者のコミュニティはゴールデン街から三丁目の末廣亭あたりのブロック。二丁目はゲイタウン。二丁目のゲイタウンには今は女装のお店は少ししかない。
恐らく、棲み分けた方がお互い楽でお客さんも来やすいことが理由なのではと気付いた。しかしなぜそうなったのかをまた考えるように。」

 
 ----新宿二丁目はもともと男女の性的な場所だった

ここからスライドと合わせながら、三橋先生による二丁目の歴史の時間が始まった。
 

歌川広重の晩年の名作、名所江戸八景の内藤新宿。
内藤新宿は、江戸の五街道のひとつである甲州街道にできた宿場。
ここは人の往来よりも物資の往来が多かった。
 
  
手前に馬があって、円形に旅籠がある。奥に少し見えているのが飯盛女だ。
食事の世話をするという名目で旅籠にいるが、実はセックスのお世話をする。そんな女性が多数いた。そこが内藤新宿である。
 四谷4丁目の交差点が四谷大木戸。
四谷大木戸を出ると、そこは江戸ではなくなり、宿場町が始まる。いまの新宿伊勢丹の前の交差点だ。
新宿三丁目の交差点が追分(おいわけ)の交差点で、そこから新宿駅にまっすぐ行くと青梅街道。鉤の手に降りて新宿駅の南口の方へ陸橋を超えて行くのが甲州街道。
そこが大体宿場で二丁目は中町。それが今の仲通り。
 
 
面白いのは、ここは性的な場所が積み重なっている場所だということだ。
宿場町の飯盛女による非公認の売春が行われていた。
それが明治に入り1873年に貸座敷指定地となる。「ここでは売春をやっていいですよ」という公認エリアに。甲州街道の道沿い両サイドにそのようなお店が70軒ほど並んでいた。
 
 
新宿御苑はもともと長野県の高遠藩の内藤という大名のお屋敷だった。
その一部分を割いて宿場を作ってくれたが、明治維新で内藤家の屋敷も全て政府に没収され、そのあと大正の初めに皇室の御苑になる。
 

新宿御苑の「御」、は皇室の持ち物という意味。
そこで時には天皇、貴族、外国の大使行使、来日した外国の賓客を招いて宴会の野外パーティをする。
 
 
皇居から大正天皇が新宿御苑に来た際に、道の両側に大きな暖簾をかけた建物を見て、「あれは何だ」と聞かれても「あれは女郎屋です」と答えられない。要するに高貴な人の目に触れないようにするという形で、遊女屋を一箇所に集めることになる。
集める場所は道沿いではなく少し引っ込んだ所、今の靖国通り沿いだ。当時、靖国通りは北裏通りと言って全くの裏通りだった。
その側に「牛屋の原」という牧場の跡地がある。もともと郊外にあった牧場だが、だんだん家が建ってきて、牛の匂いが環境公害になり、更に郊外へ移転。そこに遊女屋を集団移転した。
 
 
新宿二丁目の仲通りを進み、信号のある交差点の北西の一角、(ビックスビルのあたりも含めた一帯、)そこが新宿遊郭。1922年(大正11年)にできた。
そこが太平洋戦争の空襲で全焼し焼け野原となったが、御苑側のブロックだけが残る。
 
戦後、新宿通りと靖国通りを結ぶ、都電を通すための道路ができる。それがいまの御苑大通り。それまで都電は新宿通りをまっすぐ新宿駅前まで走っていたが、車が増えてきたこともあり、御苑大通りを通して、靖国通りへ抜けることに。靖国通りの歌舞伎町のあたりに新たな停留所ができる。そのことにより歌舞伎町が発展した。
 

----空白の10年間

旧遊郭の焼け跡、御苑大通りを真っ二つに切った東側を赤線エリアと呼んだ。赤線とは地図を赤で囲うデッドラインエリア。赤線エリアでは売春を黙認する地区。それが今の二丁目の一角。
 
 
ところがその周りに黙認しない非合法の売春エリア(青線)が溢れるようにできた。二丁目の大部分は赤線か青線エリアとなる。
 
 
1959年の売春防止法で赤線も青線も禁止となった。
それまでは江戸時代以来ずっと男と女の町だった。
売春防止法施行から10年くらいの間をおいて、1960年代の末から急速にゲイタウンになる。
町ぐるみでセクシャルオリエンテーションが転換したのだ。
この10年に何があったのかは今でも謎のままである。
 
 
このような例は、果たして世界でも存在するのか。
 
 
須崎「まさにイギリスのゲイタウンと、文献を読む限り新宿2丁目と流れがほぼ一致している。」
 
1958年、売春防止法施行直後。
  

 

こちらの写真が現在。仲通りの信号のある交差点の手前から北側を撮ったところ。



左の写真、「GINGA」と書いてある建物側が赤線エリア。現在、両サイドは完全にゲイバーでびっしりである。


銀河(裏文字)という店の路地が新千鳥街の南側の路地になる。
今はここに立ち飲み屋があって、外国人が沢山いる。この二つは全く同じ場所である。
 
 
三橋先生の研究の一つの発見としては、焼け跡系飲み屋街、「千鳥街」だそうだ。
「新千鳥街」があるということは「元千鳥街」や「旧千鳥街」があるはずだが、見つからない。それもそのはず、今は地図から消えているのだ。探すのにとても苦労したそうだが、新宿高校の近くに千鳥街を見つけた。

 

図:千鳥街の消滅 

1967年  
 
   

1970年

当時は都電が走っていたが現在は非常に広いグリーンベルトがある道に工事された。その工事の際に千鳥街が壊された。


 千鳥街(西側の路地)

千鳥街の飲屋街の裏、奥に都電が顔を見せている。
ゴールデン街に少し似ている。
 

問題は、50~60年代初頭に、千鳥街にゲイバーが4,5軒あったということだ。
 
当時の新宿はまだ他のエリアから集めても3、4件くらい。駅前のアルタの裏や、三丁目、区役所通りに1軒ずつ。
そのような状況の時に、少なくとも4、5軒集まっているということはかなりの集中エリアと言える。
しかしそれが全部壊され、人の記憶からも消えた。
 
 

----千鳥街ビックバン理論

 
ここからは証拠がなく、三橋先生の憶測である。
 

千鳥街が67年10月まではあったが、壊されてお店がなくなる。
行き場がなくなったお店は二丁目に飛び散り、それぞれお店を出し始める。
 

要は千鳥街が潰されたことで、そこにあったゲイ的なものが二丁目に飛び散ったのではないかと考える。
 
しかし、60年代の末にゲイバーが急増する理由が不明だ。
こじつけかもしれないが、68年に千鳥街がなくなったという事実と、69年くらいから急激に二丁目にゲイバーが増えたという事実は関係があるのではないだろうか。
 
 
1973年にはゲイバーが83軒になっている。
この12年で0件から83件。これはとんでもない現象だ。
 


上図①が千鳥街。赤いところが赤線。赤線の南側、仲通りの西側の南側が青。

青ではないが太宗寺の西側のブロック、割と早くにゲイバーになる。

⦁    、②、③という順番でゲイバーができてくる。①にあったゲイバーが立ち退きで②に移り、さらに③に入ってくる。②と③の間隔は恐らく5年くらいでそんなに時間がかかっていない。

今まで西、三丁目の方からゲイバーが入ってくるという説もあったが、どうも違うらしい。
①の千鳥街をみると南から来ているという説が有力だ。

 

-----これからのゲイタウンについて


須崎
「欧米のゲイタウンは、研究がある程度進んでいてモデルもある。
 二丁目と欧米のモデルとの違いとして、サンフランシスコのカストロ地区は、同性愛者の住民が多い。二丁目ではそうはならず、同性愛者の人が、ゲイバー集積地に居住者として入ってこない。」
 
 

三橋
「それ、外国の人は驚くらしい。英語でゲイタウンっていうと、カストロ地区みたいに皆がそこに住んでると思ってしまう。二丁目はそうではなく、みんながそこに通ってくる。
日本でも集まって住んだりする所もあるとは思うけど、やはりそこがゲイタウンなのか。
 日本だと商業施設型と居住型と何かしら違いがあるのかな。」


 ゲイの集まる場所はおしゃれでクリエイティブ。そして地価が上がる。地価が上がる理由として再開発が始まるためである。そうすると立ち退きが起きる。ゲイ関連が集まることによって地価が上がり、出て行くというプロセスがある。


フタミ社長 
「二丁目に部屋を探しにくる人は、ゲイの人は二丁目以外で探している。二丁目に住んでるって言うと怪しまれるから、二丁目は嫌ですっていう人は多い。日本の場合はそこをまだまだ気にする人が多いのかな。」


須崎
「新宿二丁目が今後どうなって行くかというのは、やはり気になるところ。もし再開発とかでまとめられると、ひょっとするとゲイタウンは100年のうちに場所も変わっていくかもしれない。この場所はもともとゲイタウンではなかったように、街の個性は変わって行くから、そこにはそれこそ法的な規制もあるし、LGBTで言えば社会的な受け入れの度合いにもよる。今後どうなっていくか、法や社会情など、広い目で見ていく必要があると思っている。」
 

 二丁目の未来がどうなるかはわからないが、もしLGBTタウンでなくなったとしても、今までにこの街で各々がそれぞれの想いや願いを込めてお店を出し、仲間と築き上げてきた歴史や記憶は簡単には消えない。きっと私たちの心に残っているのだと思う。
これまで全く気にも留めていなかった二丁目の歴史。しかし、今回のトークショーで、なぜ男女の性の街だった場所がゲイタウンになったのかという謎に迫りたいという気持ちが湧いた。
これは私だけではないだろう。ぜひこれからの研究を楽しみにしたい。

Written by ウエンツ
 

今回、貴重なお話をくださった三橋先生の新しい書籍が出版されました!

このトークイベントの内容をさらに深堀した、新宿の「性なる」側面の歴史研究です。
きっと新宿にもっと愛着が湧くようになるはず!ぜひお手に取ってみてください!


 

「新宿『性なる街』の歴史地理」三橋順子著
 朝日選書 2018年10月刊行

 

2018/10/11 15:48